綾斗は手にした個人用紙とにらめっこしながら大きく溜め息をつく。
全学年全クラス合同で行われる体力測定。その種目は一般的な高校で行われるものと変わりなかった。問題はそこではない。参加する生徒の多さだ。本来なら一クラス、多くても学年単位で行うものを全学年で行うという、広大な土地を遺憾なく利用できる
「全部終わらせるには一苦労だな」
「そうでもないぞ」
綾斗の隣に体育館まで共に来た強面でツンデレな男子生徒が静かに現れる。
「種目用紙に学年ごとのスタート位置が書かれてるだろ?」
綾斗は言われてから初めて気付く。
個人用紙には学園内の地図が描かれており、各学年のスタート種目とそれぞれの種目の位置情報が載せられている。ついでに注釈欄にはその場所以外で測定しても無効になると書かれていた。それも赤字で。
綾斗は気を付けようと思いながらもある疑問が浮かび上がる。
「スタート位置とかさっき言ってたか?」
「それくらい自分で用紙を見て気付けってことだ。この学校と言うより、あのイケメン教員はそういう奴だ」
「ところでさ」
「あん?」
「名前教えてくれない? 俺は谷坂綾斗」
男子生徒はぽかんとした表情を浮かべる。
「お前、よく俺の名前知らねェのに普通に接してたな」
普通ではないだろう、と喉元まで出かけた言葉を綾斗は飲み込み再び名前を訪ねる。
「俺は
綾斗は全く聞き覚えのない名前に耳を疑ったが取り敢えず頷くことにした。
「谷坂、もし良かったら一緒に種目受けないか? その感じだとどうせ一人なんだろ? 俺も一人だからどうだ?」
「一人ねえ」
綾斗は訝しむような視線を送る。しかし、どうしてだか龍鬼と目が合わない。その視線の先に何があるのか気になった綾斗は、小首を傾げながら振り返る。すると、そこには五人の冬香と多数の女子生徒が集まっていた。彼女達の視線は綾斗と龍鬼を交互に行き来し、心配そうな面持ちをしている。
ライトグレーの短髪美少女――春菜が何を思ったのか綾斗に駆け寄る。
「もしかして何か揉めてたりする?」
「いや、そんなことはないけど……あ! 友達が出来たぞ! 龍鬼、俺の義姉になる夏目だ。夏目、俺のここに来て初めての友達になる龍鬼だ!」
綾斗は子どものようにはしゃぎながら言うが肝心なところで間違えていた。
「谷坂くん、私は夏目じゃなくて春菜お姉さんだよ。まあ似てるから仕方ないけど」
「マジか。ごめん」
「いいよ。それよりあの先生時間に厳しいから、時間内に終わらないと体力測定受けてないことになっちゃうよ?」
「それは困る。早く行こうぜ、龍鬼!」
綾斗は言って龍鬼の手を引いて今にも体育館から飛び出そうとする。
しかし、龍鬼はあることに気付き綾斗に静止を促す。
「おい、待て、た、谷坂!」
「やだ、待たん! 俺のこと名前で呼ばなきゃ止まらん!」
「お前はめんどくさい女子か!」
「つーん!」
「つーんって本当に言う奴がいるか、馬鹿! 分かった。あ、あや……綾斗! ちょっと落ち着け!」
綾斗は名前を呼ばれたことが嬉しかったのか、ニヤニヤしながら駆け出す寸前の足を止める。
「あの女子達、お前と受けたそうな顔してるぞ。特にあの伏見さんが」
「ん?」
綾斗は龍鬼が顎で指す伏見姉妹の一人を凝視する。
「あれはおそらく春菜だな。さっき話し掛けてくれたし」
「残念でした、私は秋蘭でーす! 本当は一緒に受けたいけど友達作りの邪魔は出来ないので諦めます。しかーし! 綾斗くんには私たち五つ子よりも好成績を収めてもらいたいと思います!」
秋蘭の言葉に他の四人は「聞いていない」と視線だけ送るが、秋蘭は一人盛り上がり気付いていない。というよりも故意に気付こうとしていない。
「どういうことだ?」
「単純に勝負がしたいんです! せっかく家族になったんですから、ね! しましょうよ! 皆もいいよね!」
四人の秋蘭は苦笑しているが、よく見てみると一人だけとてつもなく嫌そうな顔をしていた。
しかし、そんなことを気にしている暇はない。
時間は有限。
制限時間が迫っている。
「ああ、分かった。じゃあ先に行くから!」
綾斗は話を続けても無駄だと判断し龍鬼をつれて駆け出していった。それに釣られて秋蘭以外の四人と他の女子生徒もやれやれと言った面持ちで駆け出す。
一人残された秋蘭はあたふたしながら後を追うように駆け出す。しかし、その瞬発力は凄まじく、瞬く間に女子生徒と四人の姉妹を抜き去り綾斗の隣に並んでいた。
「まだまだだね、綾斗くん!」
「お前馬鹿だろ。最初の種目は持久走だぞ。ここでそんな本気出してどうするつもりだ?」
「え? それは……」
途端に秋蘭は失速し四人の姉妹の下へ戻っていった。
綾斗は運動場に着くや先ほどまで隣にいた龍鬼がいなくなっていることに気付く。すぐ後ろを見やると五つ子よりもさらに後ろの女子生徒の所にいた。
先に到着した綾斗は持久走担当教員から特殊なブレスレットを渡される。そのすぐあとに龍鬼が到着し、同じブレスレットを渡され装着する。
「それじゃあ始めますか!」
秋蘭がやる気満々で綾斗に言う。すでに他の四人はもちろん女子生徒が走り始めているのに対して、秋蘭だけは真っ直ぐに綾斗を見つめて待っている。
綾斗はすでに汗をにじませている龍鬼を心配しながらもスタート地点に立つ。
「コースはここを二周するだけだから大丈夫ですよ!」
「ちなみに距離は?」
「三キロメートル! 女子は二.五キロメートルだけどね」
普通の学校の体力測定の倍走るのか、綾斗は素直にそう思った。
龍鬼の準備が完了したことを確認し、ブレスレットのスイッチを入れる。
「谷坂、お前足速いな」
「つーん。俺の名前は綾斗でーす。つーん」
「ッチ。あ、綾斗、お前足速いんだな?」
「それほどでもねェよ。た、つ、き!」
「ど突くぞ!」
龍鬼の脳裏に雷が落ちた。そのときにはもう拳を振り上げていた。龍鬼はしまったとばかりに周りを見やる。当然のことながら龍鬼がヤクザの若頭であることは皆知っている。そのせいもあり、顔を真っ青にした生徒たちの視線が龍鬼に集まってしまう。
しかし、そんなことお構いなしに綾斗は爆笑しながら「暴力反対!」と言って持久走前にも関わらずまるで鬼ごっこのように逃げていた。高校二年生男児の無邪気な姿を見たからか、周りの生徒もただじゃれているだけと思いホッとした表情を浮かべていた。
「悪い、助かった」
龍鬼は自然と礼を言っていた。
だが、綾斗は何のことだ、と言いたげな表情を浮かべて再びスタート地点に立つ。
そこで綾斗がある視線に気付く。それは龍鬼に向けられるような恐怖の念ではなく、
それもそうだろう。
昨日転校してきた生徒が平民であり、校内の五本指に入る財閥にして美少女の伏見姉妹と繋がりを持っているのだ。当然、プライドの高い生徒なら邪魔をしたり、いじめを強行しようとする者もあらわれてくる。今は誰も手を出さないのは、おそらく、近くに龍鬼がいるからだろう。
初めてできた友達は俺が守る、と龍鬼は心の中で誓うのだった。
丁度その時、特殊なブレスレットから電子音声が流れる。
『所定の位置について下さい。それではただいまより持久走を始めます。途中リタイアする場合はブレスレットを二回タップし『リタイア』と呟いて下さい。それでは始めます。スリー、ツー、ワン、いってらっしゃーい!』
そこはゴー! だろ、とは誰も突っ込まず綾斗だけがブレスレットを凝視していた。
一斉に駆け出す生徒たち。
綾斗はブレスレットの掛け声のせいで出遅れてしまったが、どんどん追い抜いていきあと十人と言ったところで少年は異変に気付いた。
本来、持久走は競争ではないため、抜かされそうになってもコースを塞ぐようなことはしない。しかしどうだろう。今、綾斗の前には五人組が横一列になって並走している。それもそこまで速くない速度で走っている。これでは学年トップを冠するためのタイムが出せない。
「あのーちょっと前通してくれると嬉しいんだけど」
「……」
「おーい、聞こえてますかー」
「……」
「成金、天パ、ボンボン、ベンツ、ポルシェ!」
「なんで最後は車なんだ、この庶民が!」
綾斗の振り絞った暴言がようやく前を走る五人組の一人に届いた。
言い返した男子生徒は目を見開き、綾斗の後ろに視線を送る。どうやら五人組を仕切っているのは綾斗の後ろにいるようだ。
綾斗は走りながら振り返るとそこには全く見たこともない生徒が走っていた。
「はあ、金持ちは皆、伏見さんや龍鬼みたいにいい奴ばっかだと思ってたんだけどな。まあ、仕方ないか。そもそも身分が違うもんな。でも……」
「おい、何ぶつぶつ言って――」
「相手が悪かったな!」
綾斗の整った顔立ちが引きつり、口が裂けるのではないかと言わんばかりに下品な笑みを浮かべる。
その表情には確かな殺気と相手を見下すだけの負の念が込められていた。
瞬間、綾斗は横並びしている五人組を何の躊躇いもなくわざわざ外側から追い抜いた。いや、追い抜く前に全員の顔をしっかり覚えられるように十数秒だけ並走をしてから一気に速度を上げ抜き去っていった。もちろんその時も下品で
結果だけで言うと綾斗の圧勝で終わった。五人組と仕切っていた生徒には一周の差をつけて完走した。元々の綾斗の持久力と走力もあるが、単純に五人組の生徒と仕切っていた生徒が遅かったこともある。仕切っていた生徒は最後にペースを上げて走っているが、如何せん、もう綾斗は走り終えている。
綾斗はまだ走っている龍鬼を応援しつつも、足止めしてくれた生徒たちのことも応援してあげていた。何せどれだけ努力しても
龍鬼は後に「持久走に悪魔が出た」と語ったのは言うまでもない。
そして、本命の秋蘭との勝負では、秋蘭自身が最初から物凄い勢いで走っていたため最後まで体力が持たなかったのだ。それでも五つ子の中ではずば抜けて速く最初に走り終えていた。対して綾斗は、五人組を抜いてからと言うものラストスパートまで一定の速度で徐々に加速していくという走法で最後は余裕を持って全力で駆け抜けることができた。ちなみにこの一定の速度でも十分速く、同じく走っていた陸上部の生徒に普通に引かれていた。
これがペース配分を考えた知能の差だ、なんて言えない綾斗は先ほどまで肩で息をしていたが、呼吸を整えたことで余裕の笑みを浮かべる。
常人の龍鬼は負けず劣らずを目指そうとした。しかし、相手が悪かった。タロットを取り込んだ影響と元々の身体能力が高過ぎる綾斗に無理について行こうとしたせいで途中でばてていた。そのせいで大幅なタイムロスをしてようやく走り切ることができた。
だが、ここで勘違いしてはいけないのは、綾斗は自身の身体能力のみで走り切ったのだ。それがルールであり、少年はすこぶるズルが嫌いなの男なのだ。
綾斗は体力が回復してきたことでグラウンドを見やる。
秋蘭以外の五つ子の内、ポニーテールの夏目だけは他の姉妹四人が走り終わってもまだ走っていた。
「春菜って走るの苦手なのか?」
「それを私に聞いちゃうかな? 谷坂くん」
綾斗は最後まで走っている夏目を春菜だと思い、走り終えた本物の春菜に問い掛けてしまった。
「え、あ、わるい!」
「別に良いけどさ」
春菜は頬を膨らませながらふて腐れる。
「だから悪かったって。な? 機嫌直してくれよ」
「それは引き取る話が無くなるから? それとも私とお友達になりた――」
「両方だ」
春菜が言い切る前に綾斗が真顔で応える。そんな二人の会話を偶然聞いてしまった姉妹がいた。そして、その内容が気に食わなかったのか、腰の辺りまで髪を伸ばした美少女――新葉が肩を激しく上下に揺らして二人の間に割って入る。
新葉も走るのが苦手なのかつい先ほど走り終えたばかりなのだ。
「やっぱり、あんたの目的は……ハァ、ハァ、お金なのね! ウップッ! 言っとくけど、ンーわ、私は……あんたのこと、ハァ、認めて……ない……からねっ!」
新葉は肩で息をしながら膝に手を当てて中腰になっていた。加えて今にも口から虹を生成しそうになっているため、春菜が背中をさする。
「ちょっと新葉、休んでから話しなよ」
「うっさい! 別に……疲れて、なんか……ないし……」
「どう見ても疲れてるじゃん!」
春菜がケタケタ笑いながら言うと、新葉は余計に機嫌を悪くしたのか、鬼の形相を浮かべて綾斗を睨み付けてからそっぽ向いてしまう。
「お前も苦労してんだな」
息を整えた龍鬼が歩み寄って来る。それと同時に最後まで残っていた夏目が走り終えたのか半泣きで姉妹たちのところへ向かっていた。
「さて、次はなんだっけ?」
「今からは自由だ。人が少ない所から攻めていくぞ、綾斗」
「それじゃあハンドボール投げになるな」
綾斗は言って足早にその場から離れる。
そこで龍鬼は五つ子と他の女子生徒を置いて先に行こうとする綾斗を呼び止める。
「忘れたのか? どっちが先に終わらせるかも勝負の内だって」
綾斗は悪戯っ子のような笑みを浮かべて早歩きでハンドボール投げの所まで行ってしまった。
龍鬼は未だ走り終えていない女子生徒や走り終えたばかりで四つん這いになっている女子生徒たちに向けて「谷坂、先に行くってよ!」と一言だけ伝えてから綾斗の後を追うのだった。
女子生徒は意外だ、と言いたげな表情を浮かべて先に行く二人、特に龍鬼の背中を見送るのだった。