授業の内容は思っていたよりも普通だった。
何か特別難しい訳でもなく、かと言って簡単過ぎる訳でもない。超金持ち学校であり名門校でもある常盤市随一の高等学校・私立常盤桜花学園高等部。隣接する中等部からエスカレーター式で進学する者がほとんどであり、高等部から入学する者も少ない。生徒のほとんどが上流階級の身分を持つ家庭ばかりで、学校の規模は常盤市の十分の一と広く、ヘリで登校する生徒もいたりする。
そんな彼らとは打って変わって一際目立つぼろぼろの制服を着た男子生徒は他の生徒の制服を羨ましそうに見ていた。
「やっぱり丈夫な素材とか使ってるのかなあ」
綾斗は机に突っ伏しながら呟く。
斜め前の席に座る冬香はと言うと携帯ゲーム機でゲームをしている。お昼休みでもゲームをする冬香に対してそんな勇気を持てない綾斗は尊敬の眼差しを送っていた。しかし、冬香はゲームに夢中で気付いていない。ヘッドホンもしているため呼び掛けても気付かないだろうと思い綾斗は一人弁当箱を取り出し昼食を取る。
ぼっち飯とはまさにこのことを言うのだろう。おまけに他の生徒の視線が痛い。
「おいおいなんだよ。そのしょぼい飯は。そんなんで満足できるのかよ、庶民は」
綾斗の弁当を見て同じクラスの男子生徒が突っ掛かってくる。
その生徒は綾斗が冬香と一緒に教室に入る所を見てからずっと絡んできていた。つまり、休み時間になれば必ずと言っていいほど話し掛けに来ていた。
しかし、綾斗はその全てを無視、あるいは軽くあしらう程度でまともに会話をしようとしない。そもそも男子生徒の名前すら知らない。
昼食でも話し掛けてくるのか、と思いながら綾斗は弁当のおかずを箸で摘まむ。今日の弁当の当番は梨乃だったため、とても幸せな時間になるはずだった。だが、男子生徒のせいで折角の梨乃お手製弁当を楽しむ時間が台無しになってしまった。
「ッチ。無視すんなよ! コラッ!」
痺れを切らした男子生徒が机を蹴る始末だが、綾斗は男子生徒の行動を先読みして弁当を持ち上げて難を逃れていた。同時に綾斗も少し反撃してやろうと思い睨み付ける。
「……んだよ。その目は!」
男子生徒は怒鳴りながら綾斗の胸倉を掴む。流石に危険と判断した周りの生徒たちがざわつき始める中、綾斗だけは至って冷静にお弁当をこぼさないようにと注意している。その間も男子生徒の胸倉を掴む力は強まっていくが、綾斗には一切通用していない。
そろそろ食事に集中したいと綾斗は思い、ほんの一瞬だけ鋭くどす黒い鮮血を思わせる殺気を漏らした。それに触れてしまった男子生徒は怯えた表情を見せ全身を震わせながら自分の席に戻っていった。
「……まったく、逃げるなら最初から絡んでくるなよな」
綾斗は呆れたように言ってから視線を感じ振り返る。そこには中腰で綾斗を凝視しているライトグレーの短髪の美少女――冬香がいた。中腰だからか振り返った綾斗の鼻先と冬香の鼻先が触れ合いそうになる。
綾斗は驚きのあまり椅子から転げ落ちてしまった。
「大丈夫? 谷坂くん」
「勘弁してくれよ、冬香。いくらなんでも近すぎだろ」
「私、春菜だけど」
綾斗は言われてから冬香の席を確認する。確かにそこには冬香が今もゲームに夢中になっている。
「すまん。間違えた」
「良いよ。気にしてないから。さっきの見てたけどよく手を出さなかったね? 私なら足ぐらいは踏んじゃうよ?」
見てたのか、と言いたげな表情を浮かべながら綾斗は口を開ける。
「あいつも悪気があってやった訳じゃないと思うし。睨むだけで十分かなって」
「百パーセント悪意があった気がするけど。谷坂くんがいいならいいけど。それより一緒にご飯食べようよ」
「あ、俺もう食べ終わったから」
綾斗は言い終えてから最速で弁当を食べ終える。
「そんなに一緒に食べたくないんだ」
「いや、今日は早く食べ終わって学校を探検したかったんだ。昼休みの間に全部見るのは不可能だけど、これだけ広いんだから絶対楽しいはずだ!」
「谷坂くんは童心を忘れないタイプなんだね。お姉さん、ちょっと意外かも」
「お姉さんって。そっか。春菜は長女なのか」
「そうだよ。私は長女でお姉さんなのだ。そんなお姉さんから見た谷坂くんはなんて言うか、何事も無難にやり遂げて無駄なことはあまりしない感じかな」
綾斗は「なんだよ、それ」と呆れたように言うが、それに対して春菜はウインクして誤魔化す。
「放課後は部活見学だっけ? もちろん剣道部は来るよね?」
「秋蘭が案内してくれるみたいだから間違いなく行くだろうな」
「そっかあ」
春菜は不敵な笑みを浮かべながら綾斗の前の席に座る。
「なあ、一緒に食べるつもりなら俺もう食べ終わっ……た……って……なんだそのおいしそうなホットドッグは!」
綾斗は春菜が手さげカバンから取り出した極太のソーセージが挟まったホットドッグに目を丸くする。ソーセージだけではない。一緒に挟まっている野菜類はもちろんケチャップだけでなくマスタードまでかかっている。それはもう綾斗の知っているホットドッグではなかった。
「ここの購買で売ってるやつだけど。冬香は焼きそばパン派だよ。ね?」
春菜が尋ねると冬香はヘッドホンを外して二人の方を向き頷く。
――ヘッドホン越しでも聞こえるのかよ。
綾斗がそう思っていると冬香が椅子を綾斗の机の隣に置き眠たそうな顔をして座る。
「授業の合間に買ったから出来たてじゃないけど、そこがいい」
冬香は言いながらビニール袋から焼きそばパンを取り出す。
またしても綾斗の知っている焼きそばパンではない焼そばパンが出現し、少年はさながらムンクの叫びのように悲鳴にも近い声を上げて両頬を押さえる。
「落ち着きなよ、谷坂くん。お姉さん、困っちゃうよ」
「うるさいアヤトには食べさせてあげない」
ぼんやりした様子で冬香が言う。春菜もまた笑いを堪えながらホットドックの包みを剥がす。
「お前ら、まさか俺に見せびらかすためにここに来たんじゃないよな?」
「明日は秋蘭が来るからよろしくー」
綾斗は眉間に皺を寄せながら春菜を睨み付ける。しかし、ホットドックの食欲をそそる香りと焼きそばパンの香ばしい香りが鼻腔をくすぐり、怒りの顔から空腹の表情へと強制的に変えられる。
「一口あげようか?」
不意に春菜がそう言った。
富豪の民が通う学校のホットドッグ。その味は決して庶民が味わえるものではないに違いない。
綾斗は歓喜の笑みを浮かべて答える。
「ホントか!」
「私と間接キスになっちゃうけどね」
途端に綾斗は顔を赤くして遊ばれたと思い春菜から顔を背ける。
「耳まで真っ赤じゃん。初心だねェ谷坂くん」
「春菜、ちょっとふざけすぎ。アヤトがかわいそう」
「あちゃー怒られちゃった」
そのまま春菜はニコニコしながらホットドッグを食べ終えた。冬香も最後の一口だけ名残惜しそうに見つめてから食べ終えた。
その後、他愛もない話をしてから春菜は自分のクラスに帰ってしまった。冬香もそれに合わせて自分の席まで椅子を戻し着席する。そして予想していた通り、先ほど絡んできた男子生徒が再び詰め寄ってくる。
「今度は何だ? いい加減いつも温厚な谷坂さんでもそろそろ怒りますよー」
と綾斗はふざけた調子で言うが、男子生徒はどこか焦っているようにも見えた。
「次、体育だから更衣室に行くぞ。お前まだ知らないだろ」
「あ、ああ、ありがとう」
確かに言われてみればそうだった。ちなみに冬香もその会話を聞いていたのか思い出したかのように更衣室に向かった。気付けば教室には綾斗と男子生徒の二人だけになっていた。