いつの間にか夏休みもあと残すところ数日となった。
瑛璃は明日、東京へと帰って行く。叔母と二人で暮らすための新居へと。
「ちょっと街まで行って来るから。帰ったら即部活行くし、昼はいらねえ」
「あ、そうなの? だったら『ふろまーじゅ』でいつもの買って来てよね」
「ああ、わかった」
朝食の席で母とやり取りして、お使いの代金を受け取る。
そういえば瑛璃はあのケーキは食べていなかった筈だ。今日が最後の日だからちょうどよかったかもしれない。
そう、最後だ。
もっと早く動けていたら良かったのだが、何も思いつかなかったのだ。
昨夜ふと瑛璃が来たばかりの日を思い出し、名前について調べてみた。
その結果、『瑛璃』という、彼女に似合いの綺麗な名を構成する漢字が透明な宝石を意味するとようやく知った。
そして瞬時に浮かんだ。彼女に贈りたいものが。
街まで行けばあるだろうか。時間が掛かってもよければネットショッピングもあるが、どうしても今日渡したかった。一時の「別れ」の記念品なのだから。
考えるほどに、今まで無駄にした時間が惜しい。
しかし幸いなことに、思い描いた通りの品を見つけて購入することができた。
問題は彼女が気に入ってくれるかどうか、ではあるのだが。
「東京の大学へ行かせてください!」
最後の夕食の席で頭を下げたのも、芝居がかったことをする気などさらさらなかった。
ただ、自分の中にけじめをつけたかっただけなのだ。今まで両親が勧めてくれていたにもかかわらず、くだらない拘りで意地になっていた。
それをどの面下げて、と我ながら決死の覚悟で切り出したのに、母にあっさり流されてしまった。
しかもそのあと、普段通りに母と舌戦を繰り広げたのだ。
瑛璃の前で醜態を晒してしまったのが恥ずかしくてならない。
だからと言っていつまでも頭を抱えているわけにはいかなかった。
今夜が最後なのだから。
いったん部屋に戻り、プレゼントの包みをもって瑛璃の部屋を訪ねた。
「これ!」
疑問符を浮かべつつも受け取ってくれた瑛璃に、開けるよう促す。
掌の上の透き通ったハートが煌めくのを、じっと見つめている彼女に「水晶なんだ」と告げた。
本心から喜んでいるらしい従妹の姿に、航にも安堵が込み上げる。
言葉通り「毎日持って」いてくれたらとても嬉しいと思えた。
夕食時に彼女が申し出たことに便乗する。
写真。今まで同じ家でずっと過ごして、「写真が欲しい」などと思うまでもなかった。
しかしこれからは別だ。しばらく会えない。連絡は欠かさないようにできるけれど。
だから航も瑛璃の写真が、……それ以上に二人の写真が欲しかった。
「もともと『家族みんなで』撮るんだし、母さんと俺も瑛璃ちゃんと撮ろう、って言えば自然だろ?」
勘繰られるのでは、と心配する素振りを見せる彼女に、少し強引なのは承知で言葉を重ねる。
「そうね。航くんとの写真、私もすごく欲しい」
可愛い笑顔。
メッセージ交換もしようと改めて約束し、彼女の戦慄わななく口元は見ない振りをした。
瞳だけ、見つめる。互いに見つめ合う。
部屋の前の廊下に立ったまま、室内の瑛璃と至近距離で無言のまま向き合った。少しでもバランスが崩れたら──。
──ああ。ここまでだ。
母が階段を上がってくる足音がする。
きっとこの方が良かった。今は、まだ。
航は瑛璃に笑みを向けて軽く頭を下げ、くるりと身を翻して斜め前の自室へ歩を進める。そのまま静かに部屋に入りドアを閉めた。
そのままドアの内側に立って、母が二階に上がってくる音と共に聞こえてきた二人の会話に耳を澄ます。
廊下の奥の部屋に戻って行く母と、階下の洗面所に向かったらしい瑛璃の気配を確かめると、航はベッドに仰向けに寝転んだ。
《少しでも早く会えるように、俺はとにかく勉強頑張る! 瑛璃ちゃんも応援してくれると嬉しい。》
入浴も済ませ寝るばかりになってから、航は瑛璃にメッセージを作成して送る。
もう眠っているのなら見るのは明日の朝でも、東京に帰ってからでも構わなかった。ただ意思表示をしておきたかっただけだ。
けれどすぐに既読がついて、瑛璃からは可愛らしい笑顔のキャラクターのスタンプが送られてきた。
今は高二の夏。
現役合格ならあと一年半たてば東京に行ける。あの子に会える。……だから、今は。
翌朝、食事を済ませ瑛璃を見送る前に「家族写真」を撮影した。
「ほら、母さん! 瑛璃ちゃんと写んなよ。記念だから」
「はい、伯母さんと撮りたいです」
航が自分のスマートフォンで二人を撮影すると、母が右手を出して来た。
「次はあんたが瑛璃ちゃんとね」
「え!? あ、うん」
どう話を持って行けば自然に見えるだろうかと昨夜から頭を捻っていたのだが、拍子抜けするほど簡単に事が運んでしまった。
「あの、伯母さん。私のスマホでも撮ってもらえますか?」
「もちろんよ~」
ほんの少し間を空けた微妙な距離で並んだツーショット。
「こっちのデジタルカメラデジカメで撮った分はパソコンに取り込まないと送れないんだよ。俺やって来るからちょっとだけ待って──」
「そんなの今急いでやらなくていいじゃない。あとでゆっくり送ってくれればいいから」
瑛璃が止めるのに、気が急きすぎたかとその通りにすることにした。
そう、慌てることはない。「写真を送る」という口実で連絡できる。
もう二人の間に口実など必要ないけれど。
涙声でお土産を渡している母に笑顔で応えながら、瑛璃がふとこちらを見た。
そのまま二人は視線を絡ませる。
──今はもう、言葉はいらない。さよならは言わないから。
〜『潮騒のSincerely』END〜