「瑛璃ちゃん、夜の海って見たことある?」
そう尋ねたのは数日後。
彼女に少しでもこの町の思い出を、……航との記憶を残して欲しい。
考えた結果、思いついたのが夜の海だった。
「えー、行きたい! 『夜の海』ってだけでロマンティック!」
もし気乗りしないようなら無理強いするつもりなどなかったが、前のめりで瞳を輝かせる彼女に外してはいなかったようだと安心する。
「ライトアップとかないからよくわかんないよな。なんかこんなの面白くないか……」
しかしいざ海の見える丘まで来てみると、何故こんなことを思いついたのか、と発想の貧困な自分に気が滅入る。
ただの、暗い海。何がいいのか、こんなもの。
けれど肝心の従妹は、航の自嘲に強く首を振って食い入るように海を見下ろしている。
瑛璃には未知の世界なのだから、「こんなもの」でも新鮮なのかもしれない。なんであれ、この従妹が楽しめるのならそれで構わなかった。
あまり凝視しないようにさり気なく隣に立つ彼女を視界に入れながら、ほぼ海に目を向けることなく佇む。
「そろそろ帰ろっか」
ふと我に返ったかのように瑛璃が口にした。
「もういいの?」
うん、と頷く彼女と二人、海に背を向けて歩き出した。
ああ、そうだ。もうひとつ。
「瑛璃ちゃん、上」
唐突に掛けられた声に、従妹は意味も掴めない様子で素直に喉を反らし空を見上げる。
「……!」
満天の星空に息を呑む瑛璃に、これも見せられてよかった、と微笑む。
生まれてすぐ引き取られてからずっと暮らしている町。
海も空も、そこにあるのが当然で特別考えたこともなかった。
都会では、星もあまり見えないと言う。空気が汚れている、というのはよく聞くが、街の明るさも大きいのだとか。
田舎町の「夜の暗さ」が役立つこともあるのだ。
瑛璃の驚きや喜びに、改めて「この町」の良さを再発見した気分になる。確かに見ているのに見えていなかったものを教えてくれる、愛しい従妹。
もうすぐ別れがやって来る。
佐野に言った通り、「他人ではない、従兄妹同士」なのだからこれっきりということはない、筈だ。
けれど、日帰り可能とはいえ思い立ったらすぐ会えるという距離でもない。東京に帰れば、瑛璃にはまた航の知らない毎日が待っている。航の知らない誰かと知り合うこともあるだろう。
……もしかしたら特別な「誰か」が既にいるのかもしれない。
佐野が当てこするように吐いた「あんなキレイでオシャレな都会の子が」という言葉が今更のように心に重く圧し掛かるのを感じた。
航自身、父に「可愛いだろう」と従妹の写真を見せられた時「きれいな子だ」と思った。それくらいの感想しかなかったのも否定しない。
ただ、それまでに何の予備知識もない単に「親戚だという女の子」を、まず外見で判断してしまうのは仕方がないのではないか。たとえそれが失礼な行為だとしても。
しかし実際に身近で接してきた瑛璃は、見た目の印象など些細なものだと思わせる、……いちいち意識することさえないほどの存在だった。
それでも彼女が「明らかにきれいで可愛らしい」のも、また間違いないのだ。
そう、佐野が語ったように、都会には姿も中身も優れた男など山ほどいる筈だ。
瑛璃を理解して守ってやれる、航がどうやっても敵わない相手も、きっと。
◇ ◇ ◇
「航くん、東京の大学には行かないの?」
「俺──」
「瑛璃ちゃん聞いてよ!」
翌日の夕食の席で突然瑛璃に訊かれ、戸惑いはしたが思い切って答えよう、とした。
しかし母の勢いに口を塞がれる。
気を落としたように見える瑛璃に、一刻も早く伝えたかった。自分の偽りない気持ちを。
「瑛璃ちゃん、俺大学は東京にする! だから再来年の春にまた会おう」
彼女の部屋のドアをノックして、開けてもらうなりそれだけ告げる。
「俺の親は、ただ産んだだけの名前も顔も知らない人じゃなくて、全然覚えてない赤ん坊の時からずっと育ててくれた小野塚健治と小野塚芳恵しかいないんだ」
両親とずっと一緒にいたかった。
彼らが航のことを考えて大学から外に出るよう導いてくれているのももちろん承知している。明言はしないが、態度からも伝わって来ていた。
瑛璃と会って、心を少しずつ通わせる中で痛感したのだ。離れても「親子」の関係は決して崩れたりしない。互いが気持ちを持ち続けてさえいれば。
逆に、ずっと同じ家で暮らすことがすべてではないことも知った。この従妹には知られたくないが、彼女の家庭から学んだことになるのかもしれない。
だから、また会える。──会いたい。
「あの、……佐野さん、は?」
「佐野!? あいつが何?」
何故ここでその名が出るのか、とあまりにも意外で呆れた声を出してしまった。
そういえば最初の海で、佐野は瑛璃にも会ってはいたが……。
「あ、……この間家に来たの。それで少しだけ話したから」
私のことは名前なのに自分は、と言われた、と聞かされて、中学の卒業式を思い出す。
まるで陳腐な学園ドラマをなぞるかのような「告白」を。
きっと彼女はそういうシチュエーションを体験してみたかったのだろう。それには幼馴染みで気心の知れている航がちょうどよかったのだと思う。
佐野が一部の、……もしかしたら多数の同級生の親に敬遠されているらしいことも耳に入って来ていた。
我が子をあの父親と関わらせたくない思いが強いのは、航にさえ理解できてしまう。佐野本人には何の責任もないことなのに。
告白ごっこだか少女のロマンだかに付き合うのは、正直くだらないとは感じたものの絶対嫌だというほどではなかった。
佐野には現実に見る
子どものころとは違い距離は空いてしまったとはいえ、間違いなく友人の一人なのだから。
沈んで見える瑛璃に、もしかして言うべきではなかったのか、と内心焦りつつ「普通の従兄妹同士でいいんだ」と念を押す。
それでもいい。十分だ。
たとえ「単なる従兄」としてでもこの子と繋がりが保てるのならそれだけで。