「佐野、んちもお母さんもうだいぶ前に離婚して出てって、親父と小学生の弟の世話とか全部あいつがやってるんだって」
幼馴染みの父親は、確かに瑛璃に告げた通り表向きは「仕事には行っていて暴力はない」らしい。
けれど基本的に他人には威圧的な態度で、些細なことで激昂する「ややこしい、関わりを避けたい」と見做される人間なのも間違いないと航でさえ知っていた。家庭内で弱い立場の我が子に誠実に接しているところなど想像すらできない。そして佐野を見る限り、おそらくそれが事実だ。
いろいろな「事情」の一例としてとはいえ、自分のことはともかく本人のいないところでプライベートなことを話していいのか、葛藤がないわけではない。
前振りとして利用しているに過ぎないのもわかっていた。
「瑛璃ちゃんがうちに来ることになった、って聞いたとき、全然いやとかじゃなくて『夏中ってすげえな〜』とは思ったんだ。父さんと母さんも『事情があるから』ってだけだったし」
「それは仕方ないよ。きっとママが口止めしたんだと思う。私にバレないように」
佐野の家のことに続け、瑛璃が来ると聞いた時の想いを脈絡もなく訥々と話す。
告げたかったのはこれだけではなかった。もう一つ、隠しておきたくはない大切なことがある。
「『いろんな事情があるんだ』って、俺は誰よりよく知ってんのに」
そうだ。
現実には誰よりも、かどうかは比較したことがないのでわからないし、そもそもそこまで重要ではないと思っていた。
それでも、「普通とは違う」事情を背負っていることに変わりはない。打ち明けるなら今だ。瑛璃には本当のことを知って欲しいと心から感じた。
「俺、この家のホントの子じゃないんだ。養子」
強張った従妹の表情に、タイミングが悪かったかと悔やんだがもう遅い。言い掛けたら最後まで聴いてもらいたかった。
「よその子」「自分の家」と航が勢いのまま口にしたことも、瑛璃はきちんと覚えているらしい。
「俺のホントの父親もどうしようもねえ奴だったんだよ、きっと」
これだけは誰にも言ったことはなかった。両親にも。けれど航の中に重石のように存在していたのだ。ずっと。
「大丈夫! 俺は今幸せだし、瑛璃ちゃんもこれからは叔母さんと二人で、今までの分も幸せになればいいんだよ!」
言葉を選びながらも、航と両親の関係を感じ取って慰めてくれようとする瑛璃に向けて言葉を発する。
航は心の底から幸せだと感じているのだ。両親も同じだといいと願う。
だから瑛璃にも届けたかった。
◇ ◇ ◇
《|亮平《りょうへい》! ほら、一学期にさ、お姉さんと可愛い店行ったって言ってただろ? 悪いけどちょっと聞きたいんだ。》
同じ部活で親しい友人にメッセージを送る。
《なんだ、航。姉ちゃんと行ったってカフェのことか?」
待つほどもなく返信が来た。
《そうそう! ぬいぐるみがいっぱいあって美味くて~ってなんか言ってたじゃん。》
照れも恥もかなぐり捨てて、航は友人に尋ねる。
ずっと瑛璃をどこかに連れて行きたいと考えていたのだが、「都会から来たお洒落な」女の子を伴う行先の当てなどなく実行に移せなかったのだ。
切羽詰まってどうしようもなくなりようやくではあるが、明日の約束を交わしたからには躊躇っている時間などなかった。
《あの店の名前とか知りたくてさ。大きい駅からそんな離れてないんだよな? できたら詳しい場所も教えてもらえたら助かる!》
《駅からはすぐだったよ。モールの反対側。うーん、名前なんだったかな、木とかツリー、かなんかそういう感じだったけど。ちょっと待て、姉ちゃんに聞いてやるよ。》
《おお、悪いな~。》
上辺だけではない礼を述べて、彼が姉とメッセージのやり取りをしているらしいのを待つ。
《ほい、お待たせ! 『Woody Cafe』だってさ。》
《これサイトな。地図もあるからすぐわかるよ。》
姉から送ってもらったらしい店のサイトがトークルームに浮かぶ。
《うわ、サンキュ。恩に着る!》
《なんだよ、誰と行くんだ? お前、そんな相手いたっけ?》
《従妹だよ。》
もしこれ以上突っ込んで訊かれたら、とどう答えればいいか困惑したが、彼は揶揄う様子も見せなかった。
やはり航の「家庭の事情」を慮ってくれたのだろうか、と少し複雑ではあるが、助かったのも確かなのだ。
翌日、電車に乗って訪れた街。
「この店、女子に人気らしいんだ。友達のお姉さんが気に入ってるって聞いてて」
「わかる。本当に素敵」
嬉しそうな笑顔で店内を見渡す彼女。
亮平に教わった店は瑛璃のお気に召したようで安心する。たとえ気に入らなくてもあからさまに不機嫌になるような子ではないが、だからこそ余計な気遣いはさせたくなかった。
「あのプレート結構ボリュームあったよな。あいつ、よくあれ食べてからスコーンなんて入ったな……」
メニューの写真のスコーンを思い浮かべて呟いた航に、瑛璃が母の焼き菓子を褒めてくれた。
一見適当なようでいて、母は手先が器用で料理や菓子作りも針仕事なども得意なのだ。
その連想で、つい言うつもりもなかった言葉が零れてしまう。
小学校時代の、少し苦い記憶。「貰われた子なのに!」という台詞は、当時よりも今の方が胸に刺さる気がした。
「『自分は
今言うことではない。
わかっているのに口から出てしまった。こんなことを聞かされて、瑛璃にどう答えろというのか。
「そろそろ出ようか」
航を慰めようと必死の彼女に礼を述べて、瑛璃を促し席を立った。
今もまったく気にしていないと言えば嘘になるが、特に思い悩んでいるわけではないのだ。
それが自分たち