「航、なんか食って行かねえ?」
「あー、悪い。俺は帰る」
部活の練習を終えて、仲のいい友人の誘いを断る。
夏休みに入って以来一度も応じてはいないので、相手もそれ以上食い下がることはなかった。
「従妹の子、まだいるんだっけ?」
「うん。夏休みいっぱい、かな」
「そっかー」
高校は流石に「みんな」ではないものの、少なくとも小中学校からの付き合いがある者は航の家庭事情も知っている。
正直なところ、「養子だから気を遣って家族に逆らえない」と受け取られるのは不愉快で迷惑でさえあるのだが、親しい面々はそういうこともなく気が楽だ。
自転車を飛ばし帰宅すると、家の前に立つ人影を認めた。
遠目には判別できなかったが、至近距離まで来てようやく佐野だと気付く。想定外過ぎてまったくわからなかったのだ。
「なんだよ、こんなとこで」
「あんたを待ってたのよ」
自転車から降りて問う航に、彼女は憮然として答えた。
「そりゃそうだろうけど。今日は部活なかったのか?」
彼女は部活で登校する際は制服だと話していた。たしかにそういう部の方が多い。
つまりいま佐野が私服で徒歩らしいのは、学校帰りではないということだ。
「うん」
「何の用なんだよ」
暑いのだから早く家に入りたい。
そんな気持ちが滲んだ投げやりな口調に、彼女は目を吊り上げた。
「用がなきゃ来ちゃいけないの? 前もってアポイント取ってから来いって!?」
「お前、わざわざ喧嘩売りに来たのか?」
自宅の前で派手な怒鳴り合いなどするつもりはないが、あからさまに不機嫌な佐野に自然言葉も強くなる。
「……あの従妹の子、どうせ夏だけで東京帰っちゃうんでしょ? そうなったらここやあんたのことなんかすぐ忘れるに決まってんじゃん。都会から来る子って結局そう」
航の対応のせいか多少は抑えた声ではあるが、彼女が真っ直ぐ顔を見ながら吐き捨てた。
「『普通の旅行者』ならな。でも瑛璃ちゃんは俺の従妹なんだから全然違う。他人じゃないんだから」
幼馴染みが何を言いたいのかわからない。
けれど何故か聞きたくなかった。おそらくは自分でもわかっているからだ。
瑛璃がこの町に、航の家に滞在するのは夏休み限定。八月の終わりには彼女は東京へと帰って行く。
そうなったら次にいつ会えるのか、──会えるかどうかもわからない。現に「従兄妹同士」なのに、この夏に生まれて初めて対面したのだから。
「へえ、従妹。従妹ねえ。航なんて『ただの従兄』でしかないって。あんなオシャレっぽい、……キレイな子があんたなんか相手にするわけない」
「……実際『ただの従兄』なんだからそれでいいんだよ。あと、お前こそ『田舎もんのそういうとこがイヤ』って言われてもしょーがないんじゃねえの!?」
敢えてぶつけた意地の悪い言葉に佐野が走り去った後、一息入れて門を入った航を郵便受けを見に来たらしい瑛璃が迎えてくれる。
「おかえり、航くん。待ってね、夕刊取らないと」
途端に航の周りの張りつめた空気が緩んだ気がした。
「あ、ああ。ただいま。夕刊って、そんなの瑛璃ちゃんに取りに来させんなよなあ」
「私が行くって言ったのよ。伯母さんそういうことしないわ。別に構わないのにね」
可愛い従妹。
佐野の言う通りなのかもしれない。こんな「きれいでお洒落な都会の子」が航など相手にするわけがない、というその点においては。
そうだ。こんな生活も永遠には続かない。所詮、期間限定の。
◇ ◇ ◇
「瑛璃ちゃんのママが来るから」
そう聞かされて待機していた日。
やって来た叔母の姿に航は言葉を失った。腕に巻かれた包帯。左頬に貼られた大きなガーゼ。いったい何があったというのか。
「その怪我
いつも穏やかな父の、滅多に聞くことはない荒げた声。
あいつ。つまりは瑛璃の父だ。叔母の夫で航の叔父になるのか。
今の今まで、何も知らなかった。今、知った。
叔母と瑛璃が東京でどういう目に合っていたのか。──なぜ、従妹がこの家に来たのかも、やっと。
「『イマドキの東京の女子高生』なんてテレビで観るみたいなだらしないというか、……そういう子だったらちょっと困るなと思ってたのよ」
「母さんみたいな人が『テレビでやってた!』ってデマ信じて広めるんだよな」
母の台詞に咄嗟に反発を感じ、攻撃的な言葉が漏れた。
即座に決まりが悪い思いが押し寄せる。どの口が言うのか。
母と自分がどう違うというのだろう。──同じだ。偏見で何も見えていなかった。
瑛璃と叔母の口論じみた会話を、なすすべもなく見守る。
母の介入も功を奏してか、どうにか落ち着いたらしい二人に掛ける言葉もなかった。何を言っても薄くなりそうで。
当然泊まって行くだろうと問い掛けた母に、叔母は「仕事があるから」とすぐ帰ると言う。
「航くんも面倒掛けてごめんね」
「俺は何も! 一緒に遊んでるだけだし、すごい楽しいです!」
申し訳なさそうな叔母に本心から返した。
そうだ、楽しい。とても。……もっと続くといいのに。
けれど、晴れ晴れとした笑顔で叔母が話したのは、叔父と離婚して娘と二人で新生活を始めるということだった。
どちらにしてこの夏限り。辛い「家」に帰るのではなく、「ママと二人」で暮らせるのなら、瑛璃にとっては間違いなく喜ばしいことだ。
だから航も彼女の幸せを祈って送り出さないと。
部活の練習以外は、すべての時間を瑛璃のために使ってもいい。いや、使いたいと思っていた。
本音を言えば部活さえ従妹を優先しても構わなかったが、それはかえって彼女に心の負担を掛けてしまうのは想像に難くない。
それでももうすぐ終わってしまう。夏だけのこの生活をなくしたくなかった。早く東京に、──母と二人の生活のために帰りたいだろう瑛璃には決して悟らせてはならない。
学校から帰ってシャワーを浴びると、キッチンの冷蔵庫を開ける。瑛璃の好きな銘柄のアイスクリーム。昨日、多めに買って来ておいたのだ。
「俺の部屋で一緒に食べない?」
誘いを快諾した彼女と共に自室へ向かう。
美味しそうに小さなカップの中身をスプーンで掬う彼女を、隣りに腰を下ろし無言で何度か見やった。
食べ終えてからだ。
そう唱えつつ、カップが空になるまでに最後の心の整理をする。
「俺、瑛璃ちゃんがお父さんにひどい目に合ってるなんて全然知らなかった。知ってても何もできないけど、俺は……!」
謝りたかった。
この家に瑛璃を迎えることを承諾した時も、初めて会ったあの日も。「気楽なもんだな」と穿つ気持ちが皆無だったとは言えない。
この土地で「生活」する航の前に、都会から「遊びに」来た従妹。
「私はパパに、……父、に叩かれたことはないの。いっつもママが助けてくれてた」
「だから! そういうのがもうおかしいだろ! その分叔母さんがやられてたんだよな!? あ、瑛璃ちゃんの身代わりになったとかどうこうじゃない。それは気にすることじゃない!」
瑛璃が苦しそうに口にするのは、叔母が娘を守ったということなのだろう。そして彼女はそのことを負い目に感じているのではないか。
「そんな、女の人、奥さんとか子どもに暴力振るうなんてサイテーだ! 生きてる価値ねえ!」
そう思い至った途端に言葉が溢れた。止まらなかった。
「あ、ごめん! 自分の親のこと悪く言われたら気分よくないよな」
目の前の従妹が泣き出すのを見て失敗に気付く。間違ったことを言ったとは思わないが、それでも「親」なのだから……。
「ちが、ち、がうの。うれしい」
吐息のような掠れた声で呟く彼女に、居ても立ってもいられなくなった。
黙って立ち上がり、部屋を出て階段を駆け降りる。
洗面所から掴んできたタオルを渡すと、瑛璃は手を伸ばし受け取って顔に当てた。