「最初の日にさあ、名前の話になったじゃん? 母さんが瑛璃ちゃんの名前のこと『キラキラで~』みたいに言ってて、『キラキラネームって悪口だろ! 何言ってんだこのおばちゃん!』って青褪めたっていうか」
確かにそうだった、と思い出す。
しかし、まるで遥か遠い出来事のようだ。まだ一か月しか経っていないというのに。
不安に溺れそうだったあの頃からは信じられないほど馴染んでいる自分がいた。
「そんなの全然。私は悪い意味には取らなかったよ、それに──」
「うん。瑛璃ちゃんが上手く流してくれて助かった~、ってすごいホッとしたんだ」
瑛璃が言い掛けるのに、航が決まりが悪そうに続ける。
「でも、今更だけど昨日調べたらさ。『瑛璃』って漢字が宝石とかそういう意味なんだって初めて知って」
そういや母さん国文科だったんだよな、と彼は目を伏せた。
「あのとき瑛璃ちゃんの前で余計なこと言って、『こいつ頭悪いんだ』って恥かかなくて済んでよかった! ってもう昨日は生きた心地しなかったくらいで」
「……正直、慣れてるから。いちいちそんな風に感じないよ」
良くも悪くも今風の名として、「キラキラネーム」と揶揄されることは珍しくもない。
面と向かっては少ないとしても、陰で嘲笑されていることもあったのは気づいていた。
「それで、瑛璃ちゃんの名前って『透明な宝石』とか『水晶』みたいな感じだから、じゃあ何かそういうもの記念に贈りたいと思って」
だから、水晶。
掌に載せたハートを見つめて口の中で呟く。
瑛璃の名にちなんだ、煌めく透明な石。
「えっと、ア、アクセサリーとかの方がよかったと思うんだけど! どうしても『水晶』にしたくて、他は置物っていうか飾っとくようなのばっかでさ」
言い訳するように早口になる従兄。
「宝石屋さんはやっぱ、……俺なんか場違いだし。親にもらった小遣いで買うのは違うじゃん? これ、ゴールデンウィークに単発バイトした分だから!」
「私はすごく好きよ。とっても綺麗で可愛い。それに、アクセサリーは確かに素敵だけど普段付けられないでしょ。校則違反だし。これなら毎日持ってられるわ」
溢れる喜びを乗せた言葉に、彼は安心したように口元に笑みを湛える。
「そういえばさあ。瑛璃ちゃんの写真て、俺あの最初に叔母さんが送ってくれたのしかないんだよな。あれも別に俺のじゃないし。──だから明日、二人でも撮ろうよ」
一人で写ってるのなら帰ってから自分で撮って送ればいいけど、ツーショットは今でないと無理じゃん? と少し照れたような従兄の声。
「私も撮りたい、けど。大丈夫かな?」
変に勘繰られることはないかもしれないが、目立つ言動は取らないほうがいい気がする。
それでも、本音では二人だけの写真の魅力には抗えなかった。
「もともと『家族みんなで』撮るんだし、母さんと俺も瑛璃ちゃんと撮ろう、って言えば自然だろ?」
「そうね。航くんとの写真、私もすごく欲しい」
人に見られる機会多いから待受にはできないけど、と残念な気持ちを抑え切れないままに告げた瑛璃に、航も嬉しそうだ。
「……ねえ、航くん。東京帰ってもメッセージくれる?」
「もちろん! しょーもないこといっぱい送るかも。うぜえと思ったら既読スルーで全然オッケー!」
しないよ、そんなこと、と発しようとした声が、喉に詰まって出なかった。
唇が小さく震えている気がする。
航に伝わらないといい、と考えながらもこの従兄にはおそらく見抜かれているだろうこともわかっている。
右手に水晶を持ったまま、左肘で半開きのドアを押さえている瑛璃と、廊下から一歩も踏み込んでは来ない航。
二人はそのまま、その瞳の奥の、互いの心を探ろうとするかのようにじっと見つめ合っていた。
伯母が階段を上がって来る足音が聞こえて来て、止まっていた時間が流れ出す。
航が微笑んで軽く頭を下げると、素早く自室へ戻って行った。
音もなく斜め向かいのドアが閉まり、彼の姿が視界から消える。
それとほぼ同時に、階段の一番上に伯母が足を掛けたのがわかった。
慌てて自分もドアを閉めようとレバーハンドルを掴んでから、かえって不自然に映るのでは、と気づき手を止める。
「瑛璃ちゃん、お風呂もう入る?」
そのままさり気なく廊下に出た瑛璃に、伯母の声が掛かった。
「いえ、もう少しあとでいいですか? 片付けてからじゃないと汗かいちゃいそうで。ちょっと手を洗いたいんです」
「いいわよ〜。いつでも好きなときに入ってね」
不審を抱かれることはなかったらしく、そのまま寝室へ向かう伯母を見送って一応洗面所へ向かった。
右の拳に、二人の想いを具現化したかのような透明な塊を閉じ込めたまま。
入浴も済ませ、あとはもう今身につけているパジャマを入れたらバッグを持ち出すだけの状態にして、瑛璃はベッドに横になる。
明日着るつもりの服はもう一式揃えてあった。
眠れるだろうか、と案じながらも部屋の照明を手元のコントローラーを操作して消す。直後、闇の中で充電中のスマートフォンが震えてディスプレイが光を放った。
手を伸ばして確かめると、航からのメッセージが届いたという通知が浮かんでいる。
《少しでも早く会えるように、俺はとにかく勉強頑張る! 瑛璃ちゃんも応援してくれると嬉しい。》
瑛璃には当面の目標ができた。
元通り袋に仕舞ってショルダーバッグに忍ばせたチャームに加えて、航からのこのメッセージが明確に目に見える形にして示してくれている。
そして、写真も。
少しくらい不審に思われても構わなかった。それでも、ここで瑛璃が楽しい時間を過ごしたことは、伯父も伯母もよくわかってくれていると信じている。
だから瑛璃が「記念に写真を」と望むのは決して不自然には映らないだろう。
無事に笑顔で東京での再会が叶うよう、航の合格を祈る。そしてその一年後には、瑛璃も大学に進めるように努力する。
同じ大学ではなくとも、二人ともが東京で暮らすならいつでも会える筈だ。