夏休みもあともう残すところ数日になり、明日瑛璃は東京に帰る。
母からも、無事に新居での生活も始められると知らされていた。
つまり、戻るなり家や部屋の片づけが待っているということになるが、「母と二人きりでの新生活」の前では楽しみでさえあった。
「瑛璃ちゃん、レアチーズケーキ好き?」
「はい、好きです」
おやつにしない? と伯母に呼ばれて階下に降りた瑛璃は、彼女の問いに答える。
最終日だからと特別に身構えることなく、まるきりいつも通りの雰囲気を保って接してくれる彼女がありがたい。
「これ、『ふろまーじゅ』ってこのあたりでは有名なお店のなの。ここからだとモールの近くまで行かないと買えないんだけど、航が今朝街に行くっていうから頼んだのよ」
嬉しそうな伯母がホールの白いケーキを切り分けてくれた。
「先に食べちゃっていいんですか?」
「いいのいいの! お父さんと航に合わせたら夕食前とか食後になっちゃうでしょ。こういうのは『三時』が一番合うじゃない~」
いっつもあたしが昼間に食べて、あの二人は好きな時に勝手に食べてるのよ、と伯母が話すのを聞きながら、瑛璃が紅茶を淹れる。
そして確かに美味な菓子を二人で味わった。
「そういえば航くん、今日も部活の練習なのに朝から出掛けるって言ってましたね」
朝食の席で顔を合わせた際、「街まで行って来る」と言う従兄に伯母が何か頼んでいた。「『ふろまーじゅ』でいつもの買って来て」という会話は、瑛璃には未知の固有名詞によく意味が掴めず黙って聞いていたのだ。
帰宅したかと思うと、一息つく暇もなく帰りに買ったパンを食べながら行く、と学校へと向かった彼とは言葉も交わしていない。
◇ ◇ ◇
最後の夜は、伯母が瑛璃の好みも訊いて作ってくれた心尽くしのご馳走が並ぶ食卓を全員で囲んだ。
美味しかった。本当に美味しかった、けれど、味だけではなく、この家の雰囲気が大きい気がする。
まるで家族の一員であるかのように、団欒の中に交ぜてもらえたことが瑛璃にとってはとても幸せな経験だった。
綺麗に空になった皿を前にした会話の最中に、航が突然立ち上がる。
「父さん、母さん! 俺、東京の大学に行きたいんだ。だから学費だけじゃなくて他にもいろいろお金掛かるけど、俺もバイトしたり奨学金借りたりするから行かせてください!」
彼はそう宣言するなり、深々と頭を下げた。
いきなりどうしたというのか。そういった複雑なことは、家族だけでゆっくり話した方がいいのでは──。
「あんた、何言ってんの!? あたしもお父さんも最初からそういう話してたじゃない。なんかまるであたしたちに反対されてるみたいな言い方よしてよね。お金はちゃんと用意してるから、遊ぶ分だけはバイトして」
現実はドラマのように盛り上がる流れには行かなかった。
伯母の白けた声に、航は一気に脱力したかのように椅子に腰を下ろす。
「もしかして瑛璃ちゃんが来たから? あたしがいくら勧めても無視してたのに──」
続ける伯母に、従兄が勢い良く言葉を被せた。
「母さんは! そうやって何でも口に出すとこが無神経なんだよ! 瑛璃ちゃんにも余計なこと言わなかっただろうな。田舎のおばちゃんの空気読まないジョークなんて下手すりゃイジメだぞ」
航の反応に瑛璃は声を上げそうになり、慌てて唇を引き結んだ。
伯母の台詞の意味は
単に東京から初めて会う従妹が来て、その瑛璃がごく普通だったことで「東京など畏怖するような場所ではない」と憂えていた気持ちがなくなった、あるいは逆に憧れた、といったことではないのか。
「はあ!? 誰に向かって言ってんのよ。確かにあたしは山育ちで今も『田舎のおばちゃん』だけど、大学は東京だしお父さんと結婚するまでは丸の内のOLだったのよ。受付よ! 会社の顔だったんだから!」
けれど、伯母は伯母で違うポイントに食いついたようだ。どちらも的外れな気はするものの、結果的には話が逸れてよかった、のかもしれない。
「受付は初めて聞いたけど他は知ってるよ! 当たり前だろ。あと『OL』なんて、もう古すぎて誰も使わないから」
母子の掛け合いに思わず頬が緩んだ。
この二人は、本人たちが否定するだろうことは想像に難くないが似ているのだ。外見や血の問題ではなく。
実際に、伯母も航も最初は瑛璃のことを「東京の子は~」と思っていた、しかし違った、と同じようなことを口にしていた。
親子だ。
普通がどういうものを指すのか瑛璃にはよくわからないけれど、伯父と伯母と航は紛れもなく親子だった。瑛璃と父よりよほど心が近いではないか。
そう。だからこそ、瑛璃もこの一家と離れたくはないのだ。
「あの、明日帰る前、でもいつでもいいんですけど。
「もちろんよ! じゃあ明日、家の前で撮ろうか? ねえ、お父さん。いま夜の家の中でよりお陽さまの下がいいよね!? 三脚出しといて!」
こんな最後の最後に言い出すことか、と迷いながらも頼んだ瑛璃に、伯母が真っ先に反応する。
伯父と航が勢いに押されたかのように開き掛けた口を噤むのがわかった。
「そうだな、せっかくだからそれがいいよ。だったらカメラも充電しておかないと」
わざわざカメラを用意してもらわなくとも、瑛璃のスマートフォンで十分ではないか。
しかし、全員で撮るならその方がいいかもしれない、と瑛璃は甘えることにした。
食後に部屋に戻ると、すぐにノックの音。これはおそらく……。
「航くん」
ドアを開けると、脳裏に思い描いた通りの人が立っていた。
「瑛璃ちゃん、明日は父さんが送るし俺がついてくの変だから、ゆっくり話できないかと思って。とりあえずお別れの挨拶したかったんだ」
どこか落ち着きなく強張った彼の顔、口調。
お別れ。そうだ、しばしの別離。
一年半後にはまた会える。それを楽しみに指折り数えて待つのもいい。「逢える」のだから。
もしその前に顔を合わせる機会があるとしても今年の年末年始くらいだろうか。来年の夏や冬の休みには、高校三年生になった航は受験の追い込みで忙しい筈だ。
「それで、あの……。もしよかったらこれ!」
緊張を隠し切れない様子で彼が突き出した右手には、小振りな可愛らしいピンクの布製の袋。口の部分に同色のリボンが結ばれていた。
「あ、ありがと……?」
戸惑いつつも受け取った瑛璃は、航の開けるように、との身振りに従う。
「わあ。すごい、綺麗」
リボンを解いて逆さまにした袋の口から掌に零れたのは、透き通ったハート型のバッグチャームだ。
つるりと滑らかな表面ではなく、多面カットで光を反射して煌めいている。
「それ、水晶なんだ」
ああ、そうか。航の言葉に、
普通の買い物なら、航は別の日に瑛璃を誘ってくれた気がする。