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第十章①

「瑛璃ちゃん、ちょっといいか?」

「ん? 何?」

 これから部活の練習に行く、と用意していた筈の航に呼び止められた。

「その、……佐野が瑛璃ちゃんと話したいって。あ、でもいやだったら無理しなくていいから!」

 少し困っているような、……しかし瑛璃に知らせる前に断らなかったということは航もそうして欲しいのか。

 きっと彼にもよくわからないのかもしれない。

「ううん、私は別に嫌じゃないよ。どうすればいいのかな」

「あ、じゃああいつに連絡するから。たぶんうちまで来ると思う」

 瑛璃の方から断るのは荷が重かった。

 話してどうするというのか。いったい、これ以上何を話せと?

 何よりも、なぜわざわざ航を通すのだろう。

 確かに、前回のようにこの家に来て偶然瑛璃と顔を合わせるのは容易ではないかもしれない。チャイムを鳴らして呼んでもらうのは嫌だ、というのなら尚更。

 それでも、納得は行かなくとも、瑛璃はこの申し出を受け入れるしかないのだ。

 スマートフォンを触っていた航の指が止まり、彼が顔を上げる。

「これから来るって。俺もう出なきゃならないんだけど大丈夫?」

「もちろん。佐野さんも『私と』話したいんでしょ?」

 これは瑛璃の、瑛璃と彼女の問題なのだ。だから航が自分の予定を変える必要などはない。

「あー、やっと夏休み終わる! こんな気分初めてよ。『終わらないで!』って毎年感じてたのにさ。瑛璃さんがやっと帰るんだもん」

 航が出て行ってしばらくしてからやって来た彼女が、鋭い視線で瑛璃を睨みつけながら言葉を放った。

 その通りだ。瑛璃はもう一週間もしないうちにこの町から姿を消す。

「航が、……あいつ、東京の大学行くって。絶対行かない、行きたくないって言ってたくせに! あんたのせいよ!」

「私は──」

 なんと返せばいいのか。何を、言えるというのだろう。

 佐野の言葉は、単なる言い掛かりのようでいて間違ってはいないのかもしれない。原因が瑛璃であることに変わりはないのだから。

「ねえ、どうせもうすぐ帰る子が航に勘違いさせないでよ」

「勘違い、って。私は何もしてません。それに航くんは従兄なんですよ」

 もう聞きたくない。

 何故瑛璃が、彼女に問い詰められなければならないのかわからなかった。いったい瑛璃にどうして欲しいというのだろう。 ……いや、それはきっとわかっている。

 佐野はとにかく、航から瑛璃を引き離したいのだ。航を介して瑛璃を捕まえたのは、彼に対する何らかの意思表示?

 瑛璃が必死で絞り出した言葉を、彼女が叩き落すように次の台詞を重ねた。

「だったら何!? 『従兄妹同士』って結婚もできるんだよね? あんたと航も。信じらんない! 血が繋がってなくたって気持ち悪い!」

 歪んだ表情。冷たい瞳。今にも泣きそうに見える──。

 ああ、そうか。

 彼女も知っているのだ。航がこの家の実子ではないと。

 あの「みんな知ってる」という航の言は、誇張ではなく事実なのだと思い知らされた。

 しかし航にとって瑛璃は、血縁は別としても「従妹」だ。

 結婚できるだなんて単なる法律の話でしかない。

 第一、その論なら佐野と航も同じではないのか? 血縁の近過ぎない男女なら、他の誰とでも。

「あたし、あんたみたいな子大嫌い! そんなキレイで都会に住んで何でも持ってるんでしょ!? なんでこの町に来たのよ! なんであたしから航を取ってくのよ!」

 取ったなどと責められる謂れはない。航は元々佐野の所有物ではないのだ。

 ……そして当然、瑛璃のものでもなかった。

 航とは、おそらくは彼女が考えているような関係ではないのだから。

「あ、あたしなんか母親にまで『幸せの邪魔しないで! あの男に似たお前も宗太そうたも、もう顔も見たくない!』って言われてさ! あたしはここでお父ちゃんと宗太の面倒見るしか価値ないんだよ。よその親はあたしとはあんまり付き合うなって言う。でも航はそんなの全然気にしないから、だから──!」

 彼女の「叫び」に呑まれたように、瑛璃は口を開くことができなかった。

 瑛璃を激しく罵倒しながら、その言葉の刃は佐野自身にも向けられている気がする。切り裂かれたその心から血が噴き出しているのが見えるようだ。

 きっとこんなことを言いたくはないのだ。やはりこの人は……。

 そんな佐野に追い打ちを掛けるようなことはしたくない。「航に聞かされて知っている」という事実が、どれほど彼女を打ちのめすかは考えるまでもなかった。

 これも「上から目線」になってしまうのだろうか。

「あたしに勝ったなんて思わないでよ! そんなのまだわかんない! 航は東京なんて合わないんだから。絶対ここに戻って来るわ!」

「そんな風には思ってません」

 まるで瑛璃の心を読んだかのような佐野の台詞に、口から零れたのは思ったより小さく掠れた声だった。

 これだけは伝えたかった。

 瑛璃は彼女に「勝った」などとは思ってもいないし、何より勝ち負けの問題ではない。

「そうよね。あんたみたいな子から見たら、あたしなんてなんの取柄もない田舎の子だもん。最初から勝負になんかならないよね! あたしがあんたに適うとこなんて、見た目からしてただの一個もないんだから!」

 しかしその返答は、佐野には瑛璃の意図とは異なった意味を持って届いたらしい。

 ほとんど何も言わずに棒立ちで聞いていた瑛璃の最後の答えに、彼女は自嘲するように、それでも気丈な態度は崩さなかった。

 そして佐野は、自ら口にした言葉に貫かれたかのように、一瞬顔を歪めてくるりと身を翻し走り去ってしまった。「なんか佐野が《あんた絶対東京なんて向いてない!》ってメッセージ寄越しやがってさあ。なんなんだよいったい。瑛璃ちゃん、あいつに何かいやなこと言われたりしなかった?」

 帰って来るなり着替えることもせず真っ先に瑛璃の部屋を訪れた従兄に、「何も」とだけ告げる。

 それ以上語る気はなかった。少なくとも瑛璃の口からは。

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