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第九章②

    ◇  ◇  ◇

「航くん、東京の大学には行かないの?」

 夜の海を見た翌日の夕食の席で、瑛璃は思い切って訊いてみた。

「俺──」

「聞いてよ瑛璃ちゃん! この子、『どうせ家から通える大学なんて数えるほどしかないし東京行けば』って言ってんのに渋るのよ。『東京怖い。田舎者だって馬鹿にされる』とか」

 何か言い掛けた航は、伯母の勢いに押されて黙り込む。

「……そう、なんですね」

 悪かっただろうか。他人が行き過ぎた口を出すのではなかった。

 やはり佐野の話は本当だったのだ。聞かされた日からずっと気になっていて、迷った挙句に口にしてしまった。

 別に疑っていたわけではない。けれど、どこかで信じられていなかったのだと思う。自分の目で、耳で、確かめたかった。

 そういう考えがある時点で、彼女の言葉を無条件では受け入れられていなかったのは否定のしようもない。

 もう航の顔も見られずに、瑛璃は形だけ手伝ったとはいえ伯母がほとんど作ってくれた料理を味もわからないまま笑顔で口に運んだ。

 努力を重ねてどうにか「ご馳走様」まで済ませると、自分の部屋に戻ってぼんやりしていた瑛璃はノックの音にドアへと向かう。

「航く──」

「瑛璃ちゃん、俺大学は東京にする! だから再来年の春にまた会おう」

 ドアを開けるなり、いきなり彼が捲し立てた。

「え、でも。東京行く気ないんじゃなかったの? さっき伯母さんが──」

「なかった。別に東京とか都会が嫌いなんじゃないよ。でも怖かったのはホント。俺なんてここしか知らない小っせえ人間だし」

 自嘲するように声が細く小さくなって行く航。

 そこまで気になる、……気にするようなことだろうか。

 瑛璃がこの土地の人間ではないからわからないだけなのか?

「東京なんてそんなとんでもないところじゃないよ? 特に大学は、遠くから来てる人なんていっぱいいるわ」

「それはまあ、知ってる。父さんも母さんも、地方出身で東京の大学行ってて知り合ったんだし」

 頭ではわかっていても、何か引っ掛かっていたということか。それに対する航自身の答えが見つかった?

「父さんと母さんが『東京の大学に』って言うのは、ここだとみんな俺の、……うちの事情に詳しいからってのがあるんじゃないか? そういうのから解放してやりたいと思ってんだよ、きっと」「そ、れは」

 確かにそうかもしれない。だが、それならば──。

「でも俺の親は、ただ産んだだけの名前も顔も知らない人じゃなくて、全然覚えてない赤ん坊の時からずっと育ててくれた小野塚健治と小野塚芳恵しかいないんだ。それを『血の繫がりがどうの、他人だから~』なんてどうだっていい。ワーワー言いたいやつには好きにさせときゃいいんだよ。俺は本気でそう考えてる」

 だからここに残る気だった、と口にする航。

 この家、というよりも両親である伯父と伯母と離れたくない思いも強かった気がした。

「健治と芳恵の子なんだから航でちょうどいいじゃない。古い『一家』で」

 あのときの伯母の台詞の意味が、今ならまた違った意味を持って聞こえる。

 しかし、伯父たちの方は航の心のうちもすべて見通して、その上で息子に自由に生きて欲しいのではないか。

 それに、距離が離れたからといって『親子』の関係が切れるわけではない。

「あの、……佐野さん、は?」

「佐野!? あいつが何?」

 思わず漏れた声はもうどうしようもなかった。航の虚を突かれたような表情は、とぼけているわけでもなさそうだ。

 佐野の強い気持ちは、航にはまるで届いていない。その残酷な事実に胸が、痛む。

 他人事だというのに、瑛璃には彼女の想いが少しはわかる気がしたからだ。

「あ、……この間家に来たの。それで少しだけ話したから。『私のことは名前で瑛璃ちゃんなのに自分は違う』とか、……あのごめん!」

 徐々に早口になる瑛璃に彼は首を捻り、突然何かに思い至ったように目を見開いた。

「もしかしてあいつ、中学の時の~とかくだらないこと言ってた!? あんなの冗談だよ。でも狭い町だし噂になるだけでも面倒だから名前はやめたってだけ。第一、中学からもう名前で呼ばなくなる奴らもザラにいたよ」

 何も気にしていないらしい航。

 彼女は本気なのに。本当に気づいていないのか? 佐野も冗談めかして告げてしまったのだろうか。 

 しかしそれを瑛璃の口から説明することなどできない。

 まるで「施す」かのような行為で、一時的に優越感に浸ることに何の意味があるのか。反動で自己嫌悪に襲われるのは目に見えている。

 瑛璃はその程度には自分を知っているつもりでいた。

 何より、真実を告げることで航が彼女の想いを知って心動かされたらどうする? 

 卑怯でも何でも構わない。

 表向きがどうであれ、瑛璃は航に「幼馴染みの想い」には気づかないままでいて欲しいのだ。

 そもそも「他人事とは思えない」痛みも、結局は一歩離れた安全な場所からの同情でしかない気がした。

「あの、でも『東京行きたい』ってのも特に変な意味とかなくて! 普通の従兄妹同士でいいんだ。ただ、もう会えないのだけは嫌だから」

 瑛璃が伏し目がちに黙り込んだため話が途切れて、漂う気まずい沈黙に航が急に上擦った声で言い訳をし始めた。

 ──意味、あってもいいよ。その方がいい。私は少しだけ期待してもいいのかな。

 そんなものは都合のいい思い込みで、やはり瑛璃はただの従妹であり兄弟姉妹のいない航にとっては「妹みたい」な存在でしかないとしても構わなかった。

 見返りが欲しいわけではないからだ。

 けれど瑛璃は何も言わずに頷いただけだった。

 今口を開いたら、きっと東京には帰れない予感がする。ここに残る、と泣いて訴えてしまいそうで。

 それでは駄目なのだ。自分たちには、まだやらなければならないことがあるのだから。

 高校生活も、大学受験も、……その先も。

 航は東京の大学に行く気になった。

 瑛璃はそれだけを信じていればいい。

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