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第九章①

「瑛璃ちゃん、夜の海って見たことある?」

 そんなある日の夕食後、航が唐突に尋ねて来た。

「海、……横浜の夜なら何度か行って港も見たことあるけど、航くんが訊きたいのとは違うよね?」

 横浜は大きな港であり、海は海でも全然別物という感じがする。

「横浜の夜景ってすごいんだよな!? そういうのと比べたらすげえちっぽけでくだらないかもしれないけど、いつも行く海も夜は全然変わるんだよ。もしよかったらこれから行かないか? 晴れてるし」

 彼からの誘いそのものが嬉しかった。しかしそれだけではないのも本当だ。

「えー、行きたい! 『夜の海』ってだけでロマンティック!」

 ただ「航と二人」というだけではなく、純粋に興味があった。見てみたい、と強く感じる。

「もう遅いから気を付けて。航、早めに帰んなさいよ! あんたはどうでもいいけど瑛璃ちゃんが一緒なんだから」

 送り出してくれた伯母に頷いて、航と近くの丘の上まで歩いた。

 浜に行くのかと思っていたのだが、遠目に眺めるのもまた良いのだと彼は言う。

「ライトアップとかないからよくわかんないよな。なんかこんなの面白くないか……」

 暗い海を指しながら申し訳なさそうに頭を搔く航に、瑛璃は全力で自分の正直な気持ちを話した。

「何言ってんの!? すごい素敵! これ、ライトアップしてたらかえって安っぽいんじゃない? この大自然って感じがいいのよ」

 まったくの暗闇ではない、道路の街燈の灯りでかろうじて浮かび上がる黒い海のうねり。

 いつもの穏やかでこぢんまりとした浜が、まるで表情を変えたように見えた。

 なんだか怖いほどだと感じてしまう。

 けれど、自然とはきっとそういうものなのかもしれない。おとなしそうに見えて、突如として牙をむく本性を隠している獣のような。

 唇を半開きにして魂が抜けたようにただ海を見下ろしていた瑛璃を、航は退屈した素振りもなくすぐ隣で待っていてくれた。

 ふと我に返り「そろそろ帰ろっか」と口を開いた瑛璃に、彼は「もういいの?」と笑みを浮かべる。

 そう、まだまだ見ていられた。とはいえ、あまり遅くなると伯母にも心配を掛けてしまう。

 どうしても見たくなったら、また航に連れて来てもらえばいい。夏休みはまだもう少しだけあるのだから。

「瑛璃ちゃん、上」

 帰り道、何の前触れもない航の声に、瑛璃は意味もわからないまま天を仰いだ。

 視線の先には、思わず息を呑むような満天の星空。

 宝石を散りばめたような、吸い込まれそうなという表現に相応しい煌めき。その程度の陳腐な感想しか浮かばない己がもどかしかった。この美しさをどう表せばいいのか、瑛璃にはわからない。

 皆が寝静まったあとに星が降っていても不思議ではない、あり得ないことでも信じられる気がした。

 ここはそういう町なのだ。

 家に戻り、瑛璃は伯母に促されて入浴する。

 濡れた髪をタオルで拭きながら、部屋のベッドに腰掛けて思い返してみた。

 つい先程見た夜の海、帰り道の宝石箱を引っ繰り返したような星空。

 せっかく海の近くに来ておきながら、瑛璃はこの夏一度も海で泳がなかった。この先もその機会があるとは思えない。そもそも盆を過ぎれば海水浴には危険が増えるのだそうだ。

 母に「いつでも泳げる」と言われ、別にそんな気もないのに付き合いがあるかもしれない、と荷物に水着も入れて来たというのに。

 海は、結局いつもの浜にしか行っていなかった。泳いではいけないという、波に足を浸して遊ぶくらいしかできない浜。

 けれどこの町で一番好きなのは、と訊かれたら瑛璃は迷わずあの浜だと答える。

 波打ち際の、裸足の下で動く細かい砂。寄せては返す、足首を撫でて行くような透き通った波。

 それはきっと綺麗な海というだけではない。海でさえなくてもいいのではないか。

 今夜の夜空を挙げるまでもなく、どこにでもあるような街のショッピングモールでも。

 何故なら大切なのは場所ではなかったからだ。

 どのシーンでも必ず隣にいてくれた、優しい従兄。いつの間にか瑛璃の中で、目を逸らせないほどにその存在が大きくなっていた彼。

 ──航くんさえいれば、そこが私の好きな場所。

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