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第七章②

「だから! そういうのがもうおかしいだろ! その分叔母さんがやられてたんだよな!? あ、瑛璃ちゃんの身代わりになったとかどうこうじゃない。それは気にすることじゃない!」

 従兄には、瑛璃が口籠った理由も伝わっているようだ。

「そんな、女の人、奥さんとか子どもに暴力振るうなんてサイテーだ! 生きてる価値ねえ!」

「わ、たるく……」

 ずっと誰かにそう言って欲しかったのかもしれない。

 母も瑛璃も何も悪くない。耐え忍ぶ必要などどこにもないのだと。

 しかし、他人の前では父の家族に対する振る舞いを暴露しても、話半分にさえ聞いてもらえなかっただろう。

 瑛璃なら「大人はいろいろあって大変なのよ。あなたは悪く取るかもしれないけど、親は子どものこと考えてるの」などと窘められるのが関の山だ。

 母の場合、さらに状況は厳しかったのではないか。むしろ我儘で片付けられてしまいかねない。

「優しくていい旦那さんじゃない〜」

「贅沢よね。あなたバリバリ働いてて、家のこときちんとできてないんでしょ? そりゃあ旦那さんも不満あるわよ」

 実際に小学生の頃だったろうか、母が家に来た友人に打ち明けて諌められているのを、ドアの影から覗いて耳にしたこともあった。

 彼女は出産を機に職を辞したという。所謂「専業主婦」というものか。

「あ、ごめん! 自分の親のこと悪く言われたら気分よくないよな、それはホントに──」

 慌てふためいた彼の姿が、涙の膜の向こうに霞んでようやく気づく。

 瑛璃の目の淵から溢れた雫が頬を伝っていた。

「ちが、ち、がうの。うれしい」

 どうにか出した声は聞き取れるかも怪しいものでしかない。

 目を泳がせた航が、無言で立ち上がり部屋を出て行った。

 いきなり泣き出した瑛璃を持て余したのか。それでも涙はあとからあとから湧いて出て来るようだ。

「これ!」

 廊下を走る足音が近づき、きちんと閉まっていなかったドアを開けて従兄が飛び込んで来た。

 差し出されたのは白いタオルだ。階下の洗面所まで取りに行ってくれたらしい。

「あ、りがと」

 ほぼ吐息だけで礼を述べ、タオルを受け取って目元に当てる。

「うちはさあ、なんだかんだ父さんも母さんもいい人っていうか。文句がないわけじゃないけどさ、怒られんのも結局は俺が悪い、ってわかってることばっかだし」

「この家、は。私、すごくいいお家だと思ってる。来なきゃなら、あ! お世話になるのがここで良かった、って今も感じてるわ」

 瑛璃の失言には触れることもなく、航は神妙な顔で言葉を繋いだ。

「そういう、なんていうかどうしようもない親がいるのは俺も知ってるんだ。……佐野、んちもお母さんもうだいぶ前に離婚して出てって、親父と小学生の弟の世話とか全部あいつがやってるんだって」

 佐野が

 彼女にも何らかの、おそらくは家庭の事情があるのではないか、と彼女自身が口にしたことでそれとなく察してはいたけれど。

 きっと誰もが、外から簡単には窺い知れないものを抱えているということなのか。

「聞いた後なら、そういえばあいつ、って思い当たることいっぱいあってさ。なんか親父がその、結構ろくでもないっていうか。一応仕事は行ってて暴力はないみたいなんだけど、家のことは全部あいつに押し付けてるって。弟がまだ小学校上がる前から」

 だからあの親父は絶対あいつを離さないよ、無料のお手伝いさんみたいなもんだから家から出すわけない、と苦々しく話す彼。

 瑛璃には何も言えなかった。この場に相応しい言葉を持っていない。軽々しく言及できない、彼女の事情。

 もし自分なら、簡単に「わかるよ」と言われても嬉しくはないからだ。

「都会と違って人間関係も狭いからさ。中学のとき、近所の小母さんたちが井戸端会議でしゃべってんの聞いたんだ。そのときに、お母さんはもう再婚してて、あいつが家出して会いに行ったけど追い返されたらしいってのも」


 もし母が瑛璃を父の元に一人残して消えた世界線があったならば。


 弟は別として、彼女の立場はそのまま瑛璃のものだったかもしれない。……苦しい。

「瑛璃ちゃんがうちに来ることになった、って聞いたとき、全然いやとかじゃなくて『夏中ってすげえな〜』とは思ったんだ。父さんと母さんも『事情があるから』ってだけだったし」

「それは仕方ないよ。きっとママが口止めしたんだと思う。私にバレないように」

 伯父と伯母は確実に母から教えられていた筈だが、同時に「航には詳しいことは話さないで欲しい」と頼まれたに違いない。

 何も知らなくともあれだけ気遣ってくれた従兄のことだ。

 もしすべて承知ならもっと腫れ物に触るような対応になり、きっと瑛璃にも何かただならぬものが伝わってしまった気がする。

「なんか気楽だな〜。叔母さん仕事忙しいっていうし、夏休みに子ども家にいたら面倒だから、や、厄介払い、えっと、そういうのか、ってくらいで。都会の人ってやっぱ違うんだなとか。……あの頃の俺を殴ってやりたい。だって『いろんな事情があるんだ』って、俺は誰よりよく知ってんのに」

 佐野の家庭の件を指しているのだろうか。

 顔を歪めて過去の自分に怒りを禁じ得ないでいる従兄に、その気持ちだけで報われる、と知らせたかった。

 航に告げる気はないが、現に立ち聞いて知ったときの彼の声に蔑みが混じっていたとは感じていない。

「今は言い訳にしか聞こえないかもしれないのもわかってるよ。でもさ、叔母さんの話聞いてホントのこと知る前から、俺は瑛璃ちゃんが来てくれてよかったと思ってた。『なんだかな〜』と感じてたのはホントに最初だけ! あの、浜で話したのは絶対に嘘じゃないから」

「それは別に疑ってないよ。あのときの航くん、本心なんだってわかったし」

 涙はもう止まっていて、ようやく声も震えなくなった。

「瑛璃ちゃん、すごく普通で、いや普通よりずっとしっかりしたいい子で自分が恥ずかしくなったのもホントだし。……会えてよかった、って」

「うん。私も会えて良かった。航くんにはもちろんだけど、伯母さんにも」

 出逢いも含めて、この町に来て良かった。

 今では心からそう考えている。航も同じならそれだけで満足な気さえした。


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