「瑛璃さん?」
伯母が行こうとするのを止めて、郵便受けを見に来た瑛璃を呼ぶ声。
「え? ……あ、佐野さん、でしたよね?」
門の外にいたのは見知った顔だった。航の友人だという少女。
「そうよ。佐野 めぐみ。ねえ、変だと思わない? つい最近会ったばっかのあなたが『瑛璃ちゃん』で、あたしが『佐野』ってさあ」
航の呼び方? そういえば、佐野は彼を「航」と呼び捨てにしていた。
「む、昔から、の習慣ならそういうものなんじゃ──」
「昔は『めぐみ』だったよ。この辺子どもの数も多くないし、小学校は一クラスしかなくてずっと一緒だからね」
食い気味に被せて来る彼女。だったら何だというのだろう。瑛璃にはどうしようもない、……関係もないことなのに。
わけもわからないまま「それが何か……?」と訊く前に、佐野が瑛璃を真っ直ぐに見つめて口を開いた。
「中学卒業するとき、あたしが航に告白したから。『そんなつもりない』って、それ以来急に『佐野』になったの。なんだよ、わざとらしい」
「こ、告……」
告白!? 佐野は航が好きだった、ということか? それを、彼は断った?
「あいつ、ずっとこの町にいるって言ってたのよ。東京とか都会には行きたくないんだってさ。みんな出て行きたがるのに。あたしは家に、ここに残らなきゃなんない。だから航にはあたしが、……それなのに、よそからちょっと来ただけの子が邪魔しないでよ!」
必死の形相で捲し立てる彼女。
瑛璃の心に浮かんだのは、怒りや悲しみよりも彼女に対する違和感だった。
もともと佐野は、このように誰かれなく他人を攻撃するタイプだとは思えない。
根がそういう人間だとしたら、航も距離を置きそうな気がした。
いくら幼馴染みだとはいえ、浜で初めて会ったときのように普通に会話もしないのではないだろうか。
佐野はきっと、何とかして瑛璃を傷つけて航から引き離そうとしているのだろう。
「あんたくらいキレイで可愛かったら、向こうにいくらでも相手いるでしょ! 航はこれからもここで生きてくんだから、この町の人間が一番いいのよ!」
瑛璃の反応など最初から気にしてもいないかのように、彼女が瑛璃の目をじっと見据えたまま言葉をぶつけて来る。
自分のように、と目の前の彼女が言わんとしているのは伝わった。
そうだ、そうなるのかもしれない。
航が「この町」に拘るのなら、……単純に「ここで一緒に住む」だけではなく、この町で共に育ったよく知る相手の方がいい、となっても何もおかしくはなかった。
伯母は東京で伯父と知り合い、結婚してこの町に来たと聞かされていた。彼らに限らず、そういう事象など全国的に珍しくもない。
しかし航が幼い頃からの時間を共有した存在を求めるなら、瑛璃は何があろうとも佐野のような立ち位置の相手には敵わないのだ。
いや、それ以前の問題か。瑛璃は航にとって「ただの従妹」なのだから。
そんな風にいろいろ考えて自分の中に入り込んでしまっていたため、気がついた時にはもう彼女の姿はなかった。いったい、その間瑛璃は何をしていたのだろう。
佐野は何も言わずに帰ったのか? それさえ覚えていないことが堪らなく後ろめたかった。
◇ ◇ ◇
母が来て、慌ただしく帰って行ったあと。
部活の練習に行く以外、航は他に誰かと遊ぶ予定などもないのかと申し訳なく感じるほどに、瑛璃との時間を作ってくれていた。
悪いと思っている気持ちも事実だ。
しかし、わかってはいてもつい甘えてしまう。今だけなのだから。何も気づかない、裏読みできない鈍い子だと呆れられても構わなかった。
夕方、ノックの音に声を返しながらドアまで歩き開けると、両手にアイスクリームを持った航が立っていた。
髪が濡れているのは、部活の練習で汗をかいたため帰宅してシャワーを浴びたのだろう。それが彼の習慣だ。
「俺の部屋で一緒に食わない?」
笑顔の誘いに迷わず首肯して、瑛璃は彼の部屋へ共に向かった。
「瑛璃ちゃん、いつもストロベリーだったよね? もしチョコのがよかったら俺はどっちでもいいよ?」
「いいの。これはストロベリーが一番好き」
ベッドの下の床に二人並んで腰を下ろし、話しながらフレーバー違いの冷菓をそれぞれスプーンで掬って口に運ぶ。
食べ終えて空いたカップを彼の分も纏めて机の上に置き、瑛璃は元通り航の隣に座り直した。
「俺、叔母さんが、……瑛璃ちゃんがあんな、お父さんにひどい目に合ってるなんて全然知らなかった。知ってても何もできないけど、俺は……!」
会話が途切れた間隙を突くように、航が声を絞り出す。
「私はパパに、……父、に叩かれたことはないの。いっつもママが助けてくれてた。パパが部屋に入って来たら『出て行け』って目配せしてくれたり、だから──」
瑛璃はむしろ、心傷めてくれる彼に申し訳ない思いが強かった。
それ以上に己が耐え難く卑怯な人間だと感じてしまう。
実際、瑛璃に物理的な被害が及んだことはあまりない。
なにか投げつけられるにしても、殴られるにしても。
母が必ず盾になってくれていたからだ。
瑛璃は母を犠牲にしてのうのうと暮らしていた。
今なら少しはわかる気がする。悩んでいたのは確かでも、母に比べれば瑛璃の苦痛など取るに足りないものだったのではないか。
瑛璃さえいなければ、母はいつでも逃げられた筈だ。離婚まで行かなくとも、一時的に家を出て父と距離を取ることは難しくない。ひとりなら。
それでも彼女は、絶えず瑛璃のことを考えてくれていた。