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第六章②

    ◇  ◇  ◇

「お兄ちゃん、お義姉さん、航くんも。本当にありがとうございました」

 在来線の駅からタクシーで来たという母の、半袖から覗く腕全体に巻かれた包帯。左頬に貼られた大きなガーゼ。……父の仕業に違いない。

 そして、いつ以来かすぐには思い出せないくらいの、母の穏やかで嬉しそうな笑顔に胸を撫で下ろす。

 もし瑛璃に別れを告げに来たのだとしても、──もう要らないと突き付けられたとしても、この表情だけで十分な気がした。

 今までずっと、父から瑛璃を守ってくれていた母が望むのならば。

「祥子! 大丈夫なのか!?」

「うん、平気よ。お義姉さん、本当に助かりました。御迷惑掛けて申し訳ありませんでした」

 伯父に笑い掛けると、母は伯母に向かって手をつき深々と頭を下げた。

「叔母さ──」

「やめてよ、祥子さん。じゃないの。あたし、女の子も欲しかったからすっごく楽しかったわ。瑛璃ちゃんいい子だし可愛くて〜」

 航の口を塞ぐように腕を掴んで止めた伯母が、母に向かい頭を上げるように声を掛けている。

「その怪我あいつだろ!? 祥子、なんで兄ちゃんに言わなかったんだ! お前にもしものことがあったら瑛璃ちゃんは──」

「それこそお兄ちゃんに何かあったら、お義姉さんと航くんはどうなるのよ! わたしなら大丈夫。慣れてるから。怪我これのおかげで離婚成立したのよ。即病院行って診断書取って、『警察に被害届出す、そっちの職場にももちろんバレる』って迫ったら外面だけは良いから仕方なく判子押してくれたわ」

 そういえば、今まで父が母に目立つ怪我をさせたことはなかった。

 大きな声を出したり、手あたり次第にものを投げたり壊したり。

 手を上げるにしても、外から見える部分に明らかに傷をつけるようなことはなかった。

 他人の評価だけが大切な、姑息で卑しい人間なのだ。瑛璃の父親は。

 きっと母は、今回瑛璃を遠ざけることで父を怒らせた上で更に挑発したのではないか。「目に見える証拠」を得るために。

 今までにも服に隠れる部分の痣程度は珍しくもなかった。診断書を取ることもできた筈だ。

 しかしそれでは「暴力による離婚」の決め手にはならないと諦めていたのか、それとも母の中にまだ父を切り捨てることへの迷いがあったのかもしれない。

 十八年も一緒にいたのだから、子ども側瑛璃には窺い知れないものもあったことだろう。

「実はねえ。いまだから言えるけど、全然会ったことなかったし『イマドキの東京の女子高生』なんてテレビで観るみたいなだらしないというか、……そういう子だったらちょっと困るなと思ってたのよ」

「母さんみたいな人が『テレビでやってた!』ってデマ信じて広めるんだよな」

 遠慮がちに切り出した伯母に、横から航が厳しい言葉を投げた。

 おそらくは、かつて自分の中にもあったものへの嫌悪も上乗せされている気がする。八つ当たりと表現すれば航には申し訳ないけれど。

「まあそう言われてもしょうがないよねえ。でも祥子さん、わざわざあたしが恥晒したのは瑛璃ちゃんがとても素敵なお嬢さんだったからよ」

「ありがとう、お義姉さん。ごめんね、瑛璃ちゃん。見せなくなかったし、何よりあなたが同じ目にあったら、ってそれだけは避けたかったのよ」

 数分前の笑顔はもうすっかり掻き消えて、母の瞳が潤んでいた。

「じゃあ最初から話してくれたら良かったのに! 私もう高校生だよ!? ちゃんと説明してくれたらそれくらい──」

 母の心配も気遣いももちろんわかっている。

 それでも瑛璃は、何もかも蚊帳の外に置かれるほどどうでもいい存在ではない、と悔しい想いを消せなかった。

「もし理由がわかってたら、瑛璃ちゃんはここには来なかったでしょ? ママのそばにいる、って言うの目に見えてる。あなただけは危険な目に合わせたくなかったの。言い訳は後でできるから」

「瑛璃ちゃん、伯母さんにはママの気持ちよくわかるわ。高校生だって言うなら理解してあげて」

 母が話すのに、斜め後ろに控えていた伯母がそっと瑛璃の膝に手を置いて囁いてくれる。

 わかっている。母と伯母の言いたいことは。

 そう、瑛璃はもう十六歳なのだ。あと僅か二年足らずで成人する年齢。

「ママ。言いたいこといっぱいある。でも、……ありがとう。あと、ママがいなくなったら私一人だよ? これからは絶対無茶しないで」

「わかったわ。そうよね、瑛璃ちゃんはもう小さな子どもじゃないのね」

 しんみりした雰囲気を変えるためなのか、伯母が明るく口を挟んで来た。

「祥子さん、今日は泊まって行くでしょ? 瑛璃ちゃんと同じ部屋でいいかな」

「すみません、お義姉さん。私、仕事があるから帰らないと。他にもいろいろやることあるし。申し訳ないけど瑛璃はもう少しこちらでお世話になれますか? 夏休み終わるまでにと思って、何とか新居も目処ついたんです。航くんも面倒掛けてごめんね」

「俺は何も! 一緒に遊んでるだけだし、すごい楽しいです!」

 息子に頷いたあと、「もちろんよ」と母に微笑む伯母の横で、伯父が立ち上がる。

「祥子、帰るならもう出よう。新幹線の時間あるだろ。送るから」

 せわしなく帰りの挨拶をしている母と、並んで玄関へ向かう伯父の背中を見送った。

 いま瑛璃の胸中にあるのは、この夏が永遠に終わって欲しくないという気持ちだけだ。

 母は確かに瑛璃を愛して、必要としてくれている。その保証ができたからこそ湧き上がる想い。

 ──夏が終わったら、航くんと会えなくなっちゃう。

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