夕食後に用意してもらった部屋で荷物を解いていた瑛璃は、ドアをノックする音に手を止めて立ち上がった。
この部屋には、内側からだけ閉められる鍵がつけられているのだ。
よくトイレや洗面所のドアにあるようなタイプではなく、外からは開けられないもの。中が無人のときは誰でも入れるが、そんなことは気にならない。
わざわざホームセンターで買って付け替えてくれたのだという。
夕食前に案内してもらったとき、ドアは古そうなのにレバーハンドルや土台だけが新品に見えたため理由を訊いたら伯父が教えてくれたのだ。「年頃のお嬢さんをお預かりするんだからこれくらい当然だよ」などと言い添えて。
「瑛璃ちゃん、俺バスケ部で休み中は練習半日が週三回だから結構時間あるんだ。もし行きたいとこあったらどこでも連れてくよ? いや、車じゃないからあんまり遠くは無理だけど、電車乗ってもよければ街も行けるし」
開けたドアの向こうには航が立っていた。
「あ、はい。ありがとうございます。でも航さん、そんなに──」
「なんで航『さん』? 年上ったって一個だし、後輩にも『小野塚さん』て呼ばれてるから名前にさんってなんか落ち着かない。『航』で全然いいけど、まあ呼びにくいだろうし『くん』にしてよ。あと、もっと普通に喋っていいから。従兄妹なんだしさ」
苦笑いの従兄に、「はい、……うん、じゃあ航くん」と瑛璃は素直に従う。
「で、どこ行きたい? 街にはさ、大きいモールあるよ! ああいうとこっって、店も東京と同じなんだろ?」
「私、あの……、できたら海に行ってみたい」
正直、「東京と同じ」には興味がなかった。
せっかく来たのなら「この町ならでは」の場所の方がいい。
わざわざ「東京ではない、『東京と同じ』もの」で疎外感を強調されるのは気が進まない。
瑛璃の希望に彼はあっさり頷いた。
「そうなんだ。泳ぎたいってこと?」
「ううん。私海で泳いだことないし、ちょっと怖いんで」
海で泳ぐのが当たり前の土地で失礼だったろうか、と口にしたあとで焦ったものの、航は気にしていないようだ。
「そんなら今日見た浜行こうか。あそこ遊泳禁止なんだけどさ、きれいな海だよ。ちょっと歩くけどそれはいい?」
「うん、そんな何時間も掛からないでしょ」
答えた瑛璃に、従兄は安心したように見える。
「じゃあ明日、午前中に出よう」
それだけ言い置くと自分の部屋に入って行く彼を見送って、瑛璃はまた荷物の整理に戻った。
おそらく伯父も伯母も従兄も、瑛璃を預かることになって可能な限り労ってあげようと決めていたのではないか。
いきなり一人で、まるで捨て猫同然によく知らない人の中に放り込まれた瑛璃に同情して?
今の従兄の誘いもその一環に違いなかった。
しかし、例えそうだとしても不貞腐れるのだけは違う。彼らは好意なのだから、瑛璃が感謝もしないで捻くれるのはどう考えてもおかしい。
明日は楽しめるといい。
航が気遣ってくれるのなら、瑛璃も精一杯喜んで見せないと。
「瑛璃ちゃん、ちょっといい?」
決意を新たにしたところに、またノックの音と伯母の声が同時に耳に届いた。
「伯母さん、何でしょう?」
「ごめんね、さっき言い忘れちゃって。お風呂沸いたから、瑛璃ちゃん先に入ってよ」
「え、私は最後で──」
驚いて口にし掛けた瑛璃に、彼女が微かに眉を寄せる。
「そういうのやめてよね。『普通』にしてくれてていいんだから。ああ、もしよそのお風呂に入るのは気になるとか、元々湯船に浸からないんならシャワーでいいのよ。慌てなくていいから着替え持って降りて来てね」
それ以上瑛璃に何も言わせず、伯母は微笑んで階段に向かって歩いて行った。
好意を無下にしてはいけない、とすぐに荷物を探ってパジャマと下着にバスタオルを取り出し、瑛璃は階段を降りてリビングルームに顔を出す。
「あの、伯母さん。すみません。それじゃお言葉に甘えて……」
「うん。お風呂と洗面所はここね。で、瑛璃ちゃんが入るときはドアにこれ掛けといて」
渡されたのはスマートフォン程度の大きさのプラスティックのプレートだった。「入浴中」の文字が刻まれ、両端に細いチェーンが通されている。
示されたドアには、このためなのだろうフックも付けられていた。
「こんなのまで……」
「大事でしょ〜。同じ家で暮らすのに、トラブルあったら互いに気まずいじゃないの。この入り口にはないけど中のドアは鍵掛かるのよ。でも、いくら曇りガラス越しでも洗面所まで誰か来たら嫌よね」
ありがとうございます、と受け取って、伯母の目の前でフックにチェーンを掛けて見せる。
「タオルはこの棚に置いておくから自由に使ってくれていいのよ。もちろん自分のがよかったらそれでいいし。あと、洗濯物は遠慮しないでこのカゴに入れといて。でも人に見せたくない物とか、自分で洗って部屋に干したかったら好きにしてね」
与えられた部屋には小型の室内用物干し台まで置かれていたのだ。
おそらくは伯母が細かく考えて差配してくれたのだろうことは、考えるまでもなく予想がつく。