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第一章

「瑛璃ちゃん、ママのお兄さんの健治けんじ伯父さんはわかるわよね? 夏休みの間、伯父さんのお家に遊びに行かない?」

 七月始めの出来事だった。

 突然の母の提案に驚きはしても、心のどこかで予想していた気もする。行き先はまったくの想定外だったけれど。

 口調も「もう決まったから!」ではなかった。

 母は無理強いなどはしない。瑛璃が「そんなの嫌」と言い張ればしつこくもすることはないだろう。

 つまり瑛璃の気持ち次第ということだ。

 それでも、母がここで切り出したことの深刻さは理解できているつもりだった。今まで娘に悟らせないように努力してくれていたことも。

 だからこそ、瑛璃も知らない振りを通していたのだ。

「うん、いいよ。伯父さんとこって海の近くだったよね? 一か月以上も海辺に避暑なんてセレブみたいじゃない?」

「避暑地なんかじゃないわよ。コンクリートの都会よりはマシだけど普通に暑いわ。まあその気になればすぐ泳げるのは確かね」

 あからさまではなくとも確かに安堵した様子の母に、読みを間違えてはいなかったことを確信する。

「あーママ、泳ぐの得意って言ってたもんね~。私は──」

 玄関ドアの開く音に、空気が変わった気がして瑛璃は次の言葉を飲み込んだ。

あっついなあ、いるんならクーラーくらいつけとけって」

 ぶつぶつ言いながらリビングルームに父が姿を現す。

 微かに顎を引いて合図するかのような母に、瑛璃はさり気なく座っていたダイニングテーブルの椅子から立ち上がった。

「おかえり」

 形ばかり呟いて、そのまま入ってきた存在と入れ替わるように廊下に出る。

「おい、なんだよあいつ! 親が帰ったのにニコリともしないのかよ。お前、もっとちゃんと躾けろって」

「……高校生なんてあんなものでしょ。成長してる証拠よ。いつまでも『小さい子』じゃないんだから」

「お前が俺の悪口でも吹き込んでるんじゃないのか? ったく、誰のおかげで──」

 閉め切られたリビングから漏れる二人の声に押されるように、瑛璃は何も考えないようにして自室へ向かった。

 その背に届く何かの、……何かが壊れる聞き慣れた音に息が苦しくなる。

「瑛璃ちゃんのパパ、若くてカッコいいね〜。やっぱり瑛璃ちゃんもキレイだしぃ」

 友人に褒められるたびにどう返そうか迷ったものだ。見た目はいいのかもしれない。

 それだけではなく、一見は。外向きの顔は。

 なのに、……どうして、母は。

 伯父の健治とは何度か会ったことがある。

 ただし、必ず伯父が仕事の都合で来たときに東京こちらで。伯父の家、……つまり母の故郷には行ったこともなかった。

 詳しくは知らされてもいないのだが、母は瑛璃の祖父に当たる自分の父親と上手く行っていなかったらしい。

 だから母が実家のことを話すことはなかった。それこそ伯父が来るから会うかどうかを訊かれるくらいのものでしかない。

 毎回伯父との会合は母と三人でだったのだが、母も自分の兄とは仲が良いようで楽しそうにしていた。


    ◇  ◇  ◇

「瑛璃、夏休みだけどさあ──」

「あ、……ごめん朱音あかね。私、家の都合で夏休みずっと親戚のとこに行くことになったんだ。いきなりでホントごめん!」

 次の日学校で、一番親しい友人に声を掛けられた瑛璃は顔の前で両手を合わせて謝る。

 いろいろ予定を考えて話していたのだ。朱音の家も旅行は行かないというし、……いや高校生にもなれば家族旅行でもないのか?

 プールに行こうか、日焼けしたくないし屋内がいいよね。テーマパーク、は真夏に炎天下で並ぶのちょっとやだなあ。あとは食べ歩き!

 そんな風に希望を並べて、直後に控えた期末試験を乗り切ろうと楽しみにしていたのに。

「──そーなんだ。ちょっとざんねーん。まあ夏休みじゃなきゃ行けないとこもないし、九月になってからでもいいよね! プールも夏休み混みそうじゃん?」

 中学から一緒の朱音は、瑛璃の事情もそれとなく察している、気がしていた。

 打ち明けたことも相談したこともないけれどこの友人は結構鋭くて、……それを詮索したりしない思いやりもあるのだ。

「うん。あ、そういえばさ、朱音の好きなあのアニメ、九月に映画やるんじゃなかった? 一人で浸りたいんじゃなかったら一緒に行こうよ」

「一人じゃ終わったあと感想言い合えないじゃん! 瑛璃はあんまり興味ないかなと思って誘うの迷ってたんだ。絶対行こ~。観たあとのごはんもセットでさ!」

 せっかく合わせてくれる友人に景気の悪い顔など見せられない。

 だから瑛璃も全力で朱音の案に乗ることにした。

「ねえ、瑛璃。あの、もし何かあったらいつでも連絡して来てよ。メッセージでも電話でも。夜中に掛けて来ても大丈夫だよ。どうせあたし、夏休みなんていい加減な生活してるからさあ」

 学校帰り、駅に向かう途中での会話の合間。さりげない様子で口にした朱音に、一瞬上手く表情が作れなかった。

「ありがと。もしかしたらそうするかも。──ごめん」

「いやあ、あたしも瑛璃と夏中離れてんの寂しいもん」

 ただ甘えるだけで何も説明できない自分が申し訳なくて思わず零れた謝罪の言葉に、彼女は何も気づかない振りで笑う。

 詳しくは言えないことも、けれど瑛璃が何らかの困難を抱えていることも。その結果の「夏休み中の急な予定」であることも。

 無理に訊き出そうはしない親友の心遣いがありがたい。

「九月にいっぱい遊ぼう。私も観たい映画あるんだけど付き合ってよ。十月になってからでもいいし」

「いいよ〜。あ、もしかしてあのドラマの劇場版?」

「そうそう」

 普段から互いの好きなことはよく話しているので、朱音にはすぐ通じたらしい。正直、今はそういう気にもなれないのだが、観たいと思っていたのは確かだ。

「アニメと違ってグッズ配布とかないなら、封切りすぐは混むからちょっと空いてからのがいいかもね」

「てことは、朱音のお目当ての映画はまたグッズあるの? ……無事にもらえたら私の分もあげるよ」

「いや、今度もランダムで複数よ! そんな何回も観に行けないし、できたらコンプリートしたいけど二個でも助かるわ。これで同じの出たらもう運命だし。よろしく!」

 無理矢理にでも「楽しい」話をしていれば、その時だけでも不安が消える気がした。


    ◇  ◇  ◇

「向こうの駅まで伯父さんが迎えに来てくれるからね」

「新幹線の駅から結構遠いんでしょ? いいのかな」

「荷物が多いから乗り換え大変だろうって伯父さんが。それはママからちゃんとお礼を言ってあるわ」


 新幹線のホームで。わざわざ手間を掛けてもらわなくても最寄りの駅まで自力で行くのに、と疑問を返した瑛璃に、母が答えた。

「これはお家についたら伯母さんに渡して。瑛璃ちゃんなら心配ないだろうけど挨拶はきちんとね。夏中他所の子を預かるのってすごく大変だと思うし」

 菓子折りの箱と現金が入っているという封筒について母が念を押して来る。

 乗車券を持っている瑛璃はともかく、母は改札口の中に入るのにも入場券が必要になる。そのため改札から先は一人でいいと断ったのに、聞く気もなさそうにホームまでついて来てくれた。

 優しい母。おそらく、瑛璃のことを考えてくれている母。この旅もきっとそうなのだ。ただ信じるしかない。

 瑛璃が一人でどれだけ何を考えても、どうにもならないのだから。

「わかってる! 伯父さんは知ってるけど、伯母さんも、えっと航さんも初対面だしね。『東京の子は常識がない』なんて思われたら嫌だもん」

 知らない町、知らない家、……一歳上で高校二年生だという従兄。

 赤の他人ではない。親族なのだから、邪魔だと感じたとしても悪意を向けられるようなことはない、筈だ。

 どうしても納得がいかないなら最初から断るだろう。

 ほんの一か月と少し。小さな子どもでもあるまいし、瑛璃はもう高校生なのだから。

 必死で自分に言い聞かせても、不安と寂しさは完全には払拭できなかった。


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