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月の乙女は魂をとり戻す。永遠に 6

 愛されなくてもいいなんて、嘘だ。

 そばにいるだけでいいなんて、きれいごと。いつだって、愛されることを望んでいた。


 おれを愛してくれ。

 おれだけを見てくれ。

 おれがきみだけのために生まれてきたように、きみが、おれだけのために生まれてきたのだったらよかったのに……。



「……い、やあああああああああーーーーーーーーっ!!」


 永遠と思えるほど引き延ばされた一瞬。

 マテアは絶叫し、レンジュの元へ走った。


 地に横倒れとなった彼の身を起こし、仰向ける。固く目を閉じたレンジュに意識はすでにない。


 刃を刺したままでは死ぬのに時間がかかる。それをよく知っているレンジュは刺した瞬間刃を横に引きながら抜きとっていて、傷口からはどくどくと音をたてて大量の血があふれ出ていた。


「いや……いやよ、レンジュ……」


 マテアは震える両手を傷口にあて、血をなんとかして押し戻そうとする。己を染めていくレンジュの血という現実に、全身が痺れた。

 外界を知覚する、あらゆる感覚がその機能を麻痺させ、真っ暗な闇に頭から飲まれていくようだった。


 強すぎる動悸は、反対に心臓そのものがなくなってしまったような静寂と空洞を作り出す。


 がちがちと奥歯が鳴り、涙があふれて視界がぼやけた。現実であると認めたくないあまり、気が遠くなりかける。


「いや……。

 おねがい、目を開けて……死なないで……」


 本当は、わかっていた。レンジュを殺せないのは、自分の身勝手で他者の命を奪つことが許せないばかりではないこと。それを、恰好の口実にしていた。

 認めたくなかったのだ、彼に意かれていることを。

 自分が愛しているのはラヤだと、必死に思いこもうとした。


 彼をサナンに奪われたくなくて、その一心で禁忌を犯してまで地上界に降りたはずなのに、他者に心を奪われるなんて、あってはいけないことだったから。


 ではラヤへの気持ちはなんだったの?

 それとも二人とも好きだとでもいうつもり?


 わたしはそんな、軽薄な女じゃない。だから、ラヤだけを想わなくてはいけないのだ。今までも、これからも。ラヤ以外の男性に心惹かれてはいけない。

 レンジュに惹かれていると思うのは錯覚だ。この言葉の通じない世界にたった一人で、孤独で、淋しくて。だから自分の一部である<リアフ>を内に持つ彼に親近感を持ち、それを恋愛感情と混同することによって、ただ利用しているだけという己のあさましさを直視しないですむよう、心が楽なように偽って、彼に守ってもらおうとしているにすぎないのだ。


 でも、そう思いながら、いつも心は裏切ってレンジュのことを考えていた。

 <リアフ>を口実に、レンジュを目で追っていた。

 いざというとき、胸で呼んでいたのもレンジュだった。彼のことしか考えられなかった。来てくれると信じたのは、来てほしかったから。

 そして本当に彼がわたしを救いに洞窟へ飛びこんでくれたとき、その両腕で強く抱きしめられたとき、このまま死んでもいいとさえ思った。


 わたしの帯をずっと持っていてくれたのだと知ったとき、とてもうれしかったのだ。


「おねがい……おねがいだから……」


 もう自分の気持ちを偽ったりしない。恥知らずと罵られてもかまわない。だから……だからどうか死なないで……!!


 だが全身全霊をこめたその願いもむなしく、ポウゥ…とレンジュの全身がほのかに金の光を発しはじめた。

 レンジュの体が生命活動を停止しはじめたのに比例して、<リアフ>が彼の精神による束縛から解き放たれ、肉体から出ようとしているのだ。


「だめ!! だめよ、わたしの<リアフ>!!」


 マテアの手がのった胸部に集中し、そこで光球になろうとしている<リアフ>に向かい、マテアは叫ぶ。


「戻って! 彼の中に戻って、彼を助けて……!」


 おねがいだから……!!


 しかしそう叫ぶ間も<リアフ>はレンジュの体からにじみ出て、半円状に盛り上がっている。ほぼ球体となり、マテアに引かれるように浮き上がってレンジュから離れはじめ、もはや絶望的かと思われた一刹那。

 マテアの肩越しに、傷口に向かって何者かの手のひらがかざされた。


 そそがれたのは、ほんの少しの治癒の力。

 ナイフで傷つけられた箇所をふさぎ、それ以上の出血をとめる程度のもの。

 けれどそれによって、<リアフ>はレンジュを見放すことをやめた。


 主の願いに従うように、レンジュの傷ついた心臓部を新たに形作り、補うべく、その中へ沈んでいく。


 完全なる合一。


 マテアは面を上げ、涙でぐしゃぐしゃになった顔でラヤを見上げた。


「ごめ……なさい……。わたし、あなたと帰れない……。

 このひとを、愛しているの……」


 帰りたかったのは嘘じゃない。自分が許せなくて、苦しくて。レンジュを知らず、心が平穏であったころの自分に戻りたいと、本気で願っていた。


 でもこれが、その裏にひそんでいた真実。


 ラヤは何かに堪えるように空を仰いで一時目を閉じ、彼女を見て、頷いた。


「さよなら」

「さよなら……」


 騒動に気付き、かけ寄ってくる隊の者たちが自分の存在に気付く前にと、ラヤは地上を離れ、月光界へと帰っていく。

 だんだんと遠ざかっていく彼を、マテアは見送ることはしなかった。


 その権利すら、自分は手放している。


 マテアは、そっとレンジュに上体をかぶせた。熱に熱く燃えた素肌に触れても、もはや痛みは感じなかった。自分をのせたまま上下する胸は、正しい鼓動をはっきりと打っている。


 彼は死なない。


 安堵に涙がこぼれ、レンジユを伝い落ちる。肌がぴくりと震えて、レンジュの目覚めを伝えてきた。マテアは目尻から涙を吹きとり、レンジュの目が開くのを待ってほほ笑んだ。


『ルキシュ……?』

「違うわ。マテアというの。レンジュ」

『マ、テア……』


 夢か現実かはっきりしない、まだ意識が完全に覚醒しきってない表情で、レンジュはその名を口にする。マテアは満足気に頬をすり寄せ、その首筋に顎を埋めた。


「ねえレンジュ。わかる? わたしたち、今本当に一つになったの。

 二度と離れたりしないわ。あなたがだめだと言っても、ずっとあなたのそばにいる。わたしたちはともに生きて、あなたが死ぬときわたしも死ぬのよ」


 大切なことだから、聞き漏らしてほしくなくて、耳元へ唇を近付け囁いた。それが真実であると理解したことを伝えるように、レンジュは腕を彼女の背に回し、力をこめる。


 自分は、月光界人としての寿命を果たすことなく、地上界人として、地上界人の短い寿命を終えることになるだろう。

 そのことに、ためらいはなかった。むしろレンジュとすべてをわかちあえることがうれしかった。喜びも、悲しみも。死さえ二入をわかつことはできない。あの、彼を失い自分一人とり残されることになるかもしれないという、巨大な喪失感を味あわずにすむのであれば、何をおそれることがあるだろう。


 半身を得られないこと以上におそろしいことなど、この世には存在しないのだから。


『マテア……』


 自分の名を呼ぶレンジュの声に、うっとりと聞きほれながら、マテアは幸福に酔うように、そっと目を閉じた。




【終】

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