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月の乙女は半身を求める 3

 生きてる……?

 わたし……。


 肩の痛みに息をつまらせながら、ぼんやりと、マテアはそう思った。

 柔らかな処女雪がクッションの替わりをはたしてくれたらしい。下が岩でなかったことも幸いした。


 マテアの力ではあの落下を完全にとめることができず、地上に叩きつけられてしまったのだが、即死しておかしくない高度からの落下と思えば打撲程度ですんだのは上出来だ。


 リウトはなぜあんな真似を…。


 出会ってまだ間もなかったけれど、それでもあの傲岸な彼があんなふうに自殺をはかる者であるとは思えなかった。

 久しぶりの力の全放出に心身ともにすっかり疲労し、くらくらするこめかみに手を添えながら上半身を起こす。ぬるりとした感触が、こめかみにあてた手の下でした。見ると、手のひらが血で染まっている。


 額でも切ったのかと思った。けれど、手のひらについた血の量だけでもすごい出血であるのがわかるのにそれらしい痛みがない。指で探ってそこに傷口がないことを悟ったマテアは、痛むところがないか点検してみた。


 そこかしこにあざや擦り傷があったが、一番痛むのはふくらはぎだ。ゼクロスの手によって巻かれていた包帯はいつの間にかほどけてなくなっている。傷口が広がって、熟れた果実が内側からはぜたように肉が弾けていた。だが変色した傷口からの出血はとまっている。


 手のひらについたそれが自分の血でないことを知って、マテアはさっと顔を強張らせた。


「リウト! どこなの!?」


 膝立ちをして辺りを見回す。

 自分からそう遠くない、背高くひょろひょろとした草が数本、雪を割ってとび出している所に横たわった姿を見つけて、マテアは足を引きずりながらリウトのそばへ寄った。


「リウト! 大丈夫なの!?」


 動かないリウトを揺さぶって起こそうと手を伸ばしたマテアだったが、下に敷いた左の腹部からおびただしい量の血がにじみ出、雪を染めていくのを見て、思わず動きをとめる。


 手のひらについた血はこれだった。落下する際彼を抱きしめた、そのとき付着したのだ。


 しかし、着地のときついたものではないとしたら、一体いつの間に負ったのか。


「リウト……?」


 流れ出た血は少ないとはいえない。その体からする死臭は、彼のものなのか、それともずっとしていたものなのか。区別できないまま、彼の顔に手を伸ばす。

 指が頬に触れかけたとき、眉が小刻みに震えて、リウトの意識が外界へ返ってきたことを知らせた。


「……落ちたのか…」

「そうね。ずいぶんあらっぽい降り方だったわ」


 夢うつつのようなリウトの独り言に、マテアが応じる。

 その声を聞き、彼女が傍らに座っているのを見、その体に怪我らしい怪我がないのを確認して、リウトは深々と深呼吸をした。脇腹の傷に響いたらしく、苦痛に顔を歪める。


「手数では、勝っていたんだがな……」

「この傷はどうしたの? どうしてあなた、ずっと黙って……」


 涙声になって、それ以上言葉が続かない。

 彼女を見上げて、リウトは仰向けになるよう転がった。


「マテア。おまえ、本当に、火傷を負っているのか?」

「えっ?」

「太陽の光や、炎や……おまえが、こちらで、触れて、痛みを感じたもの。今も、同じように痛いのか?」


 思いこみじゃないのか、と言われて、マテアは面食らった。


 どういう意味だろう?

 それに、それが今、何の意味があるのか。


 問いの真意がつかめないと眉を寄せたマテアから、彼女が無自覚であることを知って、リウトはふうと息をつく。


「あいつ、おまえのことをルキシュと呼んでいたな……」


 またも話題を転換されて、マテアは眉を寄せる。


「ルキシュは、月光聖女だ。おまえと同じ。

 好奇心で地上へ降りて、<リアフ>を吸いとった地上界の男を、愛して……でも、男には妻がいて。愛されることはなかった。


 おれは一刻も早く彼女の<リアフ>をとり戻すために、この世界へ降りた。なぜなら、<リアフ>は人の中に入った直後から干渉を受けはじめ、徐々に同化し――その者と運命をともにすることになるからだ。


 地上界人の寿命は短い。どんなに長生きしようと、月光界の時間でほんの数ヵ月だ。

 たった数ヵ月で、地上界人と同じように老いて、消えるしかない。


 おれは、彼女を愛していたから……彼女に消えてほしくなかった。

 <リアフ>をとり戻すには、完全に同化する前に、相手を殺すしかない」

「そんな……!」


 瞬間、マテアの中心を鋭い痛みが貫いた。それは小さな針でいて、毒針であったようにじわじわと苦い痛みを周辺に広げていく。


 レンジュを、殺す?


「<リアフ>を束縛している力がなくなれば……、つまり、死んで、やつの精神力がなくなり、そのとき近くにいれば……、<リアフ>は本来の持ち主である、おまえに戻る」


 続くリウトのつぶやきに、はっとわれに返ったマテアはあわてて頭を振る。


 今、余計なことは考えるまい。リウトはもうじき消える。それを覆すことはできない以上、彼が伝えようとしている言葉を聞き、最期をちゃんと見届けてあげるべきだ。


 リウトの目に、もはや覗きこむマテアは映っていない。


「おれは、彼女の<リアフ>を得るつもりだった……。

 イルクを殺して、<リアフ>をとりこんで……」


 はるかな昔、自分をとりこにした想いが淡くよみがえったのか、リウトは小さく鼻で笑う。


「でも、死んだのは彼女の方だった。男をかばって、おれの剣に散った……」


 そしておれは、おれを愛していると言った聖女と合一した。愛するのはもうたくさんだと思った。それくらいなら、愛される方がいいと。

 だが満たされることはなかった。ルキシュを失った胸の穴はふさがらず、いつも風が通り抜けているような気がしていた。


 地上界の人間など、どこがいい。流血を好み、奪いあい、他者を傷つけ疑めることで己の存在を確認する。どいつもこいつもつまらない。他人がいないと自己を把握できない。他人を基準に自分を計り、他人が上なら引きずり降ろす。同じならば存在していることすら認めない。上か、下か。つまるところ、自も他も同じものでできているという認識が、欠けているのだ。壊れてると言ってもいい。それが奴らの正体。


 くだらない。胸くそ悪い。そばに寄られたくもなかったが、派手にやるには便利な道具だ。カスを消すなら同じクズを使う方が効率がいい。返り討ちにあったところでクズだ。


 生き方に後悔はない。何千と命を奪ってきたが、できるものなら地上界に生きる人間全てから奪ってやりたかった。憎いイルクの名で。


(……セスにだけは、悪いことをしたかもしれない。おれの消滅で、あいつも消えることになる……)


「マテア」


 長い沈黙の後、リウトはまぶしそうに月光を手で遮り、またたいた。


「なに?」


 ――あの男を殺せるか?


「……リウト?」


 呼んだきり、何も言わないリウトに耳を近付ける。

 リウトは絶命していた。

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