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月の兵士と地上の兵士 1

 岩棚の蝋燭は穴が広がった瞬間強まった風のせいで、ことごとく消えていた。


 闇色を増した暗がりの中に、男に組み敷かれた彼女の姿を見出したレンジュは、周辺を蹴りつけさらに穴を広げるやためらいなく中へ飛びこむ。

 剣を佩いた兵士の出現に、リウトはさっと脇へ飛び退き、解放されて自由になったマテアははだけた胸元を直す問も惜しんで、まっすぐレンジュの胸へととびこんだ。


「こわ、かった……」


 これが夢でないことを確認するように彼の背に腕を回してしがみつく。

 簡易な鎧を服の上からまとったレンジュは雄々しく、逞しかった。


 強靭な彼の広い胸に触れ、頬を押しつけていると、ずっと身も心も凍らんばかりだった恐怖が溶け、薄らいでいくのがはっきりと感じられて、安堵の涙がこぼれる。


『よくここがわかったな。聖女のお導き、ってやつか?』


 よもや彼女がこんなふうに自分の元へかけ寄って、その身を預けるとは思ってもいなかったため、驚きのあまり敵の存在を失念していたレンジュの耳に、嘲弄が届く。


『おまえがイルクか』


 彼女をこんなにもおびえさせた存在を前に、緩みかけていたレンジュの緊張感があらためて引きしまる。そして、真上からの月光を半面に受けた男の姿に、レンジュはひそかに胸の中で眉をひそめた。


 盗賊団の頭領・イルクの名がアーシェンカ周辺で広まったのは数年前だが、それ以前からも他の土地でぽつぽつとその名を耳にしていた。数十年前からあちこちで噂になっている名らしく、一番古いものでは、イーリイェンの聖戦の中にも残虐非道な帝国軍将の一人として出てくるらしい。


 人間がそんなに長く生きられるわけはない。単なる偶然の一致か、聞きかじった者が悪名をかたったのだろうと考えるのが妥当だが、どのイルクも布で顔を隠しており、他に類をみないほど残忍なこと、また、『ブタ』と呼ばれる悪趣味極まりない見せしめを好んで使うことなどから、中には彼は同一人物なのではないかとの怪奇めいた推論をたてる者もいる。


 レンジュは推論の域を出ない想像と現実を混同する気はなかったが、目の前に存在し、手で触れられるものは、それがたとえ理解の範疇外であっても信じることにしている。この乙女のように。

 だから、今目の前にいて、外見に見合わない落ち着きと殺気を備えた若者の姿を見るにあたり、あるいはそちらこそ真実なのではないかとの思いがよぎった。


『これはこれは。たしかにこの男なら忍耐強そつだ』


 激情を面に出さないレンジュの、静かに怒りを燃えたたせている目を見て、リウトはさらに嘲る。

 その目が、彼の腕の中のマテアへ向いた。


「マテア。少し待っていろ。続きはこの無粋なお子様を片付けてからだ。

 もっとも、おまえが望むならこいつもブタにして、目の前で抱いてやってもいいぞ」


 言い終えるとともに、擦過音をたてて鞘から剣を引き抜く。

 途端、刃からこの剣によって斃れた者たちの悲鳴と怨嗟が噴き出し、床を這って周囲に広がりはじめたのを見て、マテアの面からすうっと血の気が引いた。


 あんな穢れに触れたなら、自分などその瞬間霧散してしまうだろう。運よく生きていたとしても、到底正気でいられるとは思えない。


 できるだけ死臭を吸いこまないよう口元を袖でふさぎ、おびえて、レンジュにしがみつく力を強める。

 レンジュはすがりついたマテアの指を一本ずつはがし、離れているようにと壁の方へ軽く突き飛ばした。


 相手はどう見ても並の腕の持ち主ではない。彼女を庇いながら立ち回る余裕はないと、苦々しく思いながら、真っ向から間合いに踏みこんだ。


 ギン、と鋼同士がかみあう音がして、火花が散った。


 二人とも中肉中背という体格が示す通り、力で押しきるタイプではなく剣技で相手を翻弄し、隙をつくタイプだ。すぐさま互いをはね返す。ぐっと左足に力を入れて踏みとどまり、尚一歩踏みこんで肩口目がけて振り下ろしたレンジュの速攻を、リウトは横に擦り流した。と同時にそのまま顔面を狙って突きこまれた剣先を、皮一枚裂かれる程度で躰わしたレンジュは重心の移行した左足を軸に転回することでリウトの側面をとり、腕の下から胸部を狙う。とらえたかに思われた次の瞬間、リウトは身を沈ませ剣をすり抜けると、剣を握る右腕目がけて剣を突き上げた。


 辛うじて直撃は避けられたものの、刃が小手を裂き、その下の腕を傷つける。


「……っ…」


 血が吹き出し、レンジュの面に苦痛が走ったのを見て、マテアは息を飲んだ。もうこれ以上見ていられないと、顔を覆ってしゃがみこむ。


 けれど、激しい斬撃音の中に時折り入る、布の裂ける音や鎧に刃がぶつかる音ばかりを聞いていると、ますます不安が膨れ上がって、そのおそろしさから見ずにはいられない。


 二人の死闘は、顔をそむけていたほんの十数秒たらずの間に大きく変化していた。


 リウトが攻め、レンジュは防戦が主となっている。

 レンジュが特に弱く、剣技に劣るというわけではなかったが、賭け引きという一点においては剣を持って七年のレンジュよりもリウトの方に百日も長があるのはしかたがない。


『はっはあ! どうした、色男! その程度の腕で、よくも単身のりこみ逃げられると思ったものだ! もう半日も我慢してりゃ、こっちから出向いてやったものを!!』


 かわすタイミングや読みを誤って傷つく数がだんだん増えてきたレンジュをリウトが嘲る。剣を噛みあわせ、そのまま押して壁まで追いつめて、どかりと腹に膝を入れた。


『一人じゃない』


 乱れた浅い息の下からレンジュは答える。

 その言葉をきっかけとして、外の騒ぎがおかしいことに気付いたリウトは、肩越しに入り口の方を瞥見した。

 久々のブタ作りに歓声を上げていた酒宴のはずが、いつの間にか悲鳴と斬撃まじりの騒動と化している。


『なるほど』

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