――レンジュ!!
氷のような汗が、突然レンジュの背を伝った。心臓を杭で貫かれたような痛みが襲う。戦場にあって、熱く燃えていた血が一瞬で冷め、刹那に集中力が霧散した。
「……今の声。彼女、か……?」
ルキシュに、なにか、あった。
それは直感でも予感でもない。もしも遠見の力があったなら、今しも躁躍されようとしている彼女の姿が見えているに違いないと思えるほどの確信だった。
彼女が危ない。
「レンジュ!?」
戦いのさなか、突如彫像と化したように動きを止めたレンジュに向けて振り下ろされた剣を、寸前でハリが受けとめる。だが自分ならともかく他人に向かってきた力を強引にはね返すには体勢が悪い。敵もそれと読んでいて、剣を引かずこのまま押し切ろうと体重をのせてくる相手に、ハリは一転はね返そうとしていた力を抜いて、そのまま下に擦り流す策に出た。
返す剣で体勢を崩した相手の脇腹から心臓まで切りつけ、からくも危地を脱したハリは、ほうっと息をつく。そして、自分が問に入らなかったら頭を割られるところだったというのに、いまだぼんやりと宙を見ているレンジュに猛烈に腹を立て、肩をつかんで揺さぶった。
「おいっ! 敵がいるってーのに、なに気い抜いてんだよ! 死ぬ気か!? その気はないんじゃなかったのか!?」
今にも横面を張り倒しそうな勢いで怒鳴りつける。
レンジュは、強く己を掴んだ手を見、ようやくそこにハリがいることに気付いたように目をしぱたかせると、ぽつりと言った。
「戻るぞ」
「はあっ!?」
「おれは……戻る。彼女が危険だ。……戻らないと」
高熱にうかされたときのような口調だった。
一語一句、淡々と告げる。そして、ここにこうしていること自体が間違っているのだと言いたげに目を細め、はがゆそうな表情をしているレンジュに恐怖を感じながら、ハリは彼を見返した。
まさか、狂ったというのだろうか。
正常だとすれば、これほど馬鹿げた言動はない。軍務規定を破り、戦場を放棄し、敵前逃亡などしたらどうなるか……ただではすまないことを、レンジュが知らないはずがない。
「早く戻らないと手遅れになる!」
手綱を強く引き、馬の首を巡らせようとするのを見て、あわてて手綱に手をかけやめさせた。
「一体どうしたっていうんだ。何の根拠があって、そんなことを言う? なんでいきなりそんなわがまま言い出したりするんだよっ!」
「根拠? そんなもの、あるものか!」
一秒を争うことなのに、どうしてここで、こんなにも手間取らなくてはならないのか。
いらだち、吐き捨てるように言い返してハリを睨みつける。
これ以上邪魔をするならおまえでも容赦しないぞと、視線が言っているのを察知して、ハリはますます混乱した。
親友であろうと許さない――本気でレンジュはそこまで思いつめているのだ。
「ちょっ……おい、待てよ、待て待てっ。いいから一度冷静になれ! そんな理屈が通用すると思ってるのか!? なんの根拠もなしにここを離れて、あとでどんな言い訳するつもりで――」
――知るものか!
レンジュは胸中で叩きつけ、これ以上無駄な時間を費やさせるなとばかりにハリの手を叩き払うや強引に馬の向きを変えた。
「レンジュ!!」
転回するレンジュの馬にはじかれたハリの馬が、驚きにぶるると鳴いて足踏む。
戦場に背を向けた時点で、レンジュの離脱行為は確定した。彼は罰を負わなくてはならない。
戦場の勝敗を決するほどのものではないので、処刑とまではいかないが、高額の罰金を支払えない以上、鞭打ち五百は避けられない。
もはやとめられないと悟って、ハリは泣きたい気持ちで顔をしかめる。
そのまま走り去ると思われたレンジュが、くるりと身をひねってハリを見た。
「おまえも来れるなら来い! ルキシュが危険なら、それは間違いなくユイナにも及んでいる!」
言い終わると同時にレンジュは馬の腹を蹴っていた。
これがどれだけ重い選択肢であるか、重々承知している。レンジュは胸が押しつぶされそうな痛みと氷のようなあせりによって、今視た一瞬の白昼夢が事実だと確信しているが、それでは他者を納得させるには不十分であることも理解していた。
だから、悠長にハリがどちらを選ぶか待つ気など毛頭ない。
尻を浮かせ、疾駆する馬のたてがみに頬が埋もれるくらい前傾姿勢をとり、太陽を見上げて時を計る。
今の頃であれば、おそらく三度目の休憩中。そのとき何かが起きたのだ。
「くそっ…!」
遠すぎる! 全力で走らせたとしても間にあわない!
手綱を巻きつけた掌にまで冷たい汗がにじんだ。とり返しのつかない喪失感がじわじわとその魔手を伸ばしてくる。もう一巻きして、さらに急ぐよう馬に指示した。
ルキシュ……ルキシュ、ルキシュ。
きみが危ないというのに、なぜおれはこんな所にいるんだ!!
今まで一度たりと感じたことのない恐怖に、レンジュの心臓はこの瞬間にも凍りついてしまいそうだった。
彼女が自分の知らない場所で危機に陥っている。もしかすると、命すら危険な目に直面しているかもしれない。誰よりも大切な、自分自身の命より大切な女性が!
傷つき、血を流した彼女の姿が脳裏に閃く。それだけで、気が狂いそうになる。
はじめて自分に向かい、笑いかけてくれた。名を呼び、手を振り返してくれて――あれは、今朝のこと。
あれが最後だなんて、絶対に認めない。
「生きていてくれ、ルキシュ……」
口の中に血の味が広がった。