一度は観念した、大事には至らなかったことにほっと胸をなでおろしていたマテアの肩を、ぽんとユイナの手が叩く。
『ありがとう、かばってくれて。
にしても、いやなやつよねー。あたし、昔っからあいつが大嫌い。すっこいドケチだし。すぐひとを天幕に連れこみたがるくせに、一度だって食べ物はおろか服も装飾品の一つもくれたことないんだから。真冬の夜の寒さをしのぐために利用する以外であいつの閨に入りたがる女なんか、ただの一人もいやしないわ。
女たちの間じゃ隊で一番の鼻つまみ者なの、知らないのかしら? きっと知らないわね、あれじゃ』
ぶつぶつ、ぶつぶつ。巨漢の姿が見えなくなっても、ユイナは不機嫌な顔でつぶやいていて、歩き出す気配は全くない。
彼女が口にしているのはあの巨漢のことだろう。たぶん。で、表情から、悪口であろうということは察することができるけれど、何を言っているのかは全くわからない。
きっかけは自分の腕がつかまれたことだった。だからマテアとしても彼女が何を口にしているか気にならなくはなかったのだが、訊く術がないこともわかっていたので、黙しているしかなかった。
やがて、うつむいて足元ばかり見ているマテアに気付いたユイナが、顔を上げてくれるよう、あわてて両手を振った。
『ごめんね。ごめんなさい。あたしばっかり愚痴ったりして。あなたにこそ、いやな思いをさせてしまったのよね。
でも気にしなくていいわ。あなたがその輪をしてる限り、誰もあなたには手を出さないから。
どの隊でもそうだけど、この隊は特に厳しいの。他人の財産に手をつけたら片手を落とされるわ。二度目で両手、三度目は追放。
あいつにそんな勇気あるもんですか。だから安心して』
『そーそー。ああ見えてけっこう小心者だからね、あいつは』
自分の銅輪を差したり、手首をちょん切る動作をしたり。身振り手振りで言いたいことを伝えていたユイナに同意する声が、唐突に間近から起きた。
いつの問に近付いていたのか、革衣をまとった青年がユイナの後ろに立っており、驚く彼女の肩に親しげに手を回す。
『ハリ! この役立たず亭王!』
先の巨漢のときと同じように強い言葉を発していたが、表情が全く違った。
青年と目を合わしたユイナは喜しそうにその首へしがみつく。
マテアは、青年を目にした一瞬、あの男ではないかとの思いにかられ、またもや問いつめたい衝動が起きたのだが、ユイナの肩越しにその面をよく見、別人であることを確認して、全身から力を抜いた。
『いつから見てたのよ。愛妻が危ないめにあってたっていうのに、冷たい男ねっ』
『おまえがやつにきゃんきゃん噛みついてるところからだな。あれはおもしろかった』
『だから野次馬に混じって見てたっていうの?』
とがめるように口先をとがらしたユイナだったが、ただのポーズというのは傍目にもあきらかだ。
青年は苦笑し、肩をすくめた。
『止めようと思わなかったわけじゃないが、リュウキが動いたのが見えたから、おれは見物に徹することにしたのさ』
『あなたにこそとめてほしかったわ。あのバカ、あたしになんて言ってたか聞いてたんでしょ? あなたまで馬鹿にされてたのよ?』
『おれに? あの話の流れでおれが出てったほうがよかったって?』
そこでユイナは数瞬の間考えこみ、肩を落とした。
『そうね。あれで正解ね』
女心として、好きな男にかっこよく助けられ、相手がどれだけ不様であるか、自分の男がどれほどすばらしいかを誇りたい見栄があるのだが、現実にあてはめて考えてみると、あの場にハリが出ていったらただでは終わらない。
相手はハリまで侮辱していたし、こちらをうかがっていた野次馬たちの前、振り上げた手の降ろし場所を探していたのだから。
『ま、こう見えておれも十分腹は立ってるから。あいつには折を見て、ちゃんとそれなりのおとしまえつけてもらうさ。
けど、おまえもかなり言いすぎてたな。そういうところも嫌いじゃないけど、もう少し相手を見て言葉を選ばないと、平手じゃすまなくなるぞ』
まだ思い切れない表情をしているユイナの腰に手を回して軽く揺する。そうしてようやくハリはマテアを見た。
『で、彼女がレンジュの?』
『そうだけど……なあに? 知らなかったの? あなた、一緒に市へ行ってたんでしょ?』
『おれと別れてた間に買ってたんだよ。戻る間も全然見せてくれなくてさ。
いくらおれでもぐるぐる巻きにされた毛布の中身は見通せないからなあ』
青年は中腰になったと思うや下から覗き上げるように被り布の中のマテアに顔を近付ける。
突然の行動に驚き、警戒して身を引くのとユイナが青年を頭突くのとが同時に起きた。
『っ、てえ~っ』
『そういう不躾なところがあなたの欠点だと、何度言わせたら気がすむのかしらね』
呆れ顔で言い、腕を組む。
一方、マテアはいらいらが頂点に達し始めていた。
勝手のわからない場では何をどうすればいいのかわからず、ユイナは悪人には見えなかったこともあったのでとりあえず黙って従ってきたが、一体いつまでこの炎天下でただ立っていなくてはいけないのか。
巨漢の男がいなくなってもユイナは動こうとせず、青年が現れてからも歩き出す気配は一向にない。
ここは天幕の中より暑くて、空気は熱砂のように肺の内側に貼りつき燗れさせてくる。骨に火がついて、体内から燃やされている気さえしてくる。ギチギチという耳に不快な二人の会話も、やけに大きく聞こえて神経に障る。
どこか、身を休められる日陰はないだろうか。
近くの天幕の影へ避難しようかとそちらを向いて歩きだそうとしたときだ。膝から力が抜けた。
地に足がめりこむようなめまいに突如襲われ、マテアは大きくぐらりと身を傾けた。
『あぶない!』
青年がユイナより先に肩を支える。
『おい、大丈夫か? 顔色が悪いぞ』
『あらほんと。
ルキシュ、気分が悪いの?』
ユイナからの呼び声に、マテアはかさかさの唇を開く。心配顔をしている彼女に向けて、何か、言葉を出そうとしたけれど、喉が震えるだけで終わってしまった。
めまいと吐き気に襲われて、ぎゅっと目をつぶったマテアのまつげが震えているのを見て、よっこらしょ、と青年がマテアの足をすくい上げる。
『何しにどこへ向かってんだか知らないけど、とりあえず天幕に戻した方がいいな』
『そうね。ごめんなさい、ルキシュ。そんなに具合が悪かったなんて、気付かなかったわ』
抱き上げられ、元の天幕へ戻される間、服越しとはいえ男と強く密着した箇所は火をともされたように熱かったけれど、今のマテアに抵抗する力は残っていなかった。