地上界にきてはじめての夜、マテアは雪の上で眠った。
月光界でも飛ぶことは少なかったし、歩くこと自体はきらいではなかったが、地面から浮いて雪を軽く踏みながら歩く、というのは想像したよりかなりきつい。しかも長時間。
せめてあの夜のように、周囲に月光の力が満ちていてくれたならよかったのだが、灰色の空は夜がきても厚い雲の層におおわれていて、月はその輪郭すらのぞかせようとせず、かろうじて雲の隙間からこぼれ落ちるように降ってくる月光は月光界のものより弱々しかったため、すっかり疲れきってしまったのだ。
季節が変わり、人間がいなくなったとはいえ、変わらず周囲の空気は穢れにあふれている。寒気にはすぐ慣れることができたけれど、こればかりは昨日今日で慣れることができず、袖で鼻と口をかばいながら歩き、何度となく雪に足をとられ、転ぶうち、起き上がれなくなってそのまますうっと睡魔の手におちた。夢も見ず、気がつけば夜はすっかり明けていて、重い頭を振りながらまた歩き出す。
二日目も、三日目も、マテアは風に運ばれてくる雪を肩や頭からはたき落としながら、ひたすら南西を目指して歩き続けた。
四日目に、ようやく立木を見つけることができた。葉は一枚もなく、丸くすべすべした細枝に雪を積もらせて眠っているその姿は少し寂しげに見えたが、それでも自分以外の命の気配を感じられたことがマテアにはうれしくて、勇気づけられた思いで足を前へ動かす。
五日目の朝、目を覚ますとちらほらと白い粉が暗色の強まった空から舞い降りてきていた。ああこれが雪の正体かと掌で受ける。足跡一つない雪原に音もなく降り積もるそれらにしばらくの間見とれた後、肩に積もった雪をはらい落とし、歩き出した。
どこにも動く影のない、静寂に包まれた、美しい光景。しんしんと降り積もってゆく白い粉。冬のない月光界では起こり得ない、その神秘さに目を奪われ、うっとりと見とれることも度々あったそれが、実はとんでもない事象の先触れであった事に気付くのに、そう時間はかからなかった。
向かい風が目に見えて強まりだすにつれ、雪の粒が大きくなり、量も増えてきた。風は空から降る雪を運ぶだけではもの足りないのか、雪原に降りていた雪片までも舞い上げてぶつけてくる。マテアはそれらから顔をかばうべく、右腕を顔の前に上げて歩く。風雪で、とうに視界はゼロだった。俯き、足元ばかり見て進むので、本当に南西に向かっているかすらわからない。かといって風雪に逆らい空を仰ぎ見ても、そこにあるのはのしかかるようにどこまでも広がった厚い灰色雲で、いつ陽がおちたかも気付けなかった。
「……もう、歩けない、わ……」
雪に足をとられ、ついにマテアは両手を雪の上についた。底を尽いた体力の、最後の力を腕や膝に流しこんでも肘や膝頭がぶるぶる震えるだけで、少しも立ち上がれない。(浮遊し続けることなどとうにできなくなっており、大分前からマテアは積雪に足を沈ませて歩いていた)ぜいぜいと全身で息を吐き出しながら、彼女は半ばヤケになって今夜はここで眠ると決意した。それがどういう結果を引き起こすことになるか、かさを増していく頭や背中の雪に、漠然と理解はできたが、もうこれ以上動けない・動きたくないという思いの方が強い。
きっと次に目を覚ましたときには、この雪も風も音もやんで、どこかへ消えてしまっているに違いない。一眠りすれば、自分の体力の方もいくらか回復しているだろうし。きっと今まで以上に積もっているだろうから雪をかきわけるのはちょっと大変かもしれないけど、でも、今はとにかく眠ってしまおう……。
それ以上思考することを拒否したマテアは倒れるように雪面に頬を押しつける。だがびゅるるという風の音に混じってバタバタと、何か固い物同士がぶつかるような音を耳にした気がして面を上げた。
音のする闇に向かい、目をこらす。それが、風にあおられた小屋の扉が壁とぶつかっている音とわかったマテアは、小屋があるとの希望によってわずかに生まれた力を最後の一滴までしぼり出す思いで身を起こし、小屋まで歩き、よりかかるようにして扉を押し開けた。
中には誰もおらず、がらんとしていた。鍵のかけ忘れかそれとも壊れているのか、扉が閉まっていなかったため、雪が小屋の中ほどまで吹きこんでいる。隅の方に砕けた椅子とか元が何であったかわからない木片やらコップやら縄やらが落ちていたが、ありがたいことに人が住んでいる気配はない。おそらくとうに住むことを放棄された小屋なのだろう、と予想をたてる。蝶番が壊れた窓の鎧戸が風にあおられぶつかるせいで、ガラスは割れて穴があいていたし、床板や壁板がすっかり黒ずんで、隙間風がそこかしこから吹いていたけれど、それでも荒れ狂った外の風を直接受けているよりはるかにましだと思うに至ったマテアは、はじめて大きく息を吐き出し、その場に膝をついて月光神と大地母神に感謝の祈りをささげた。
ガタン、ガタガタン、と鎧戸のぶつかる音を聞きながら、どうか朝にはこの風と雪がやんでいますようにと願って小屋の中央に身を横たえる。そのまま、どのくらい時間が経ったろう? いつもなら昼間の疲れが出て、とうに眠りについているはずだった。だがこの夜は違った。神経が高ぶっているのか、目を閉じていても一向に睡魔はやってこない。
理由は、考えるまでもなく想像がついた。