レイリーアスの鏡をくぐり抜け、地上界の天空へ出たマテアは、四日前と同じく雲の草原を突き抜け、地表目指して下降していった。
周囲の空は以前ほどではなかったがやはり青暗く、紺色というには鈍い色をしている。けれどそれが夜を間近にした暗さではなく、夜明けが迫っているための暗さなのだということは、マテアにもうすうす理解できていた。
一定速度を保ち、時には厚く時には薄い雲の層を幾度となく突き抜ける。そうしてとびきり厚い最後の層を抜けて地表を目にしたとき、マテアはあっと声を上げてしまった。
なぜならまるでそこにもう一枚厚い雲の草原があるように、視界一面が真っ白く染まっていたからだ。
緑らしい緑がなく、あの夜目印とした崖も見つからない。風に流され、雲を突き抜けているうちに大幅にずれてしまったのだろうか。
はたしてどこへ降りればいいのか、とまどう彼女の背を北風が突き飛ばした。直後、まるで数百の針で一斉に突かれたような痛みが起きる。服と肌の間に割って入った冷気が裏底に鋲のついた靴で踏みしめるように背をかけ上がって、一気に足の爪先まで鳥肌立った。
地上界と月光界とでは格段に時間の進みが違う。マテアが月光界に戻っていた四日の間にこの地上界ではなんと五ヵ月近くが経過し、季節が終夏から初冬に移り変わったせいだったのだが、四季というものがなく、常に常春の月光界の住人であるマテアにそれがわかるはずもない。唇からもれる息が目の前で白く変わるというのも容易には信じがたい、生まれてはじめての体験だった。
四日前と打って変わった寒気にとまどい、景色のあまりの変容ぶりに混乱しながらも、とにかくあの夜の崖を探してマテアは飛行した。けれど、どこまで飛んでもどこを見ても、真っ白く平らな地が続くばかりで、崖も森も滝も、まるでそれ自体が幻想であったかのように、それを連想できるものすら見つからない。
もしや、出る世界を間違えたのだろうか。
一度月光界へ戻った方がよくはないか。
どんどんどんどん膨らんで胸を押しつぶそうとする、際限ない不安に、そう考えて眉を寄せた頃、小さな小さな呼び声が真下から聞こえてきた。
――の乙女。
――そこにおられますのはもしや月光の――乙女ではありませんか?
「ああ……!」
木々の声だ。やはり間違っていたわけではなかったのだと、ほっと胸をなでおろして降下する。白銀の雪面に爪先が触れるかどうかのところで滞空し、声の主を探して周辺を見回したが、それらしい木は一本もなかった。
「どこにいるの?」
――あなたの真下です。
「どこに? 見えないわ」
――深い深い雪の下、土の中に、わたし――たちはいます。
返答は、とてもか細い声だった。
「雪?」
――そうです。あなたの足下に広がっております白いものを、わたしどもの世界ではそう呼んでいるのです。
「これ? この白いものがあなたたちを隠していたのね? 前にきたときはなかったから、驚いてしまったわ。こんなに寒くもなかったし……。四日でこんなにも変わってしまうなんて、こちらの世界ではよくあることなの?」
――おお月光の乙女よ、あなたがいらっしゃらない四ヵ月と少しの間に、冬の姉王女が目覚められたのです。
「四ヵ月と少しですって?」
思いもよらなかった返答に、マテアは声をはねあげて訊き返す。
――はい。この世界では太陽神と月光神が一度ずつ空を巡ることを一日と数え、二十日を一月とし、さらに十六の月を一巡年と数えます。
――創造神であられます大地母神の四人の子供たちが、四ヵ月ごとに均等に治めていらっしゃるのです。
――あなたがいらっしゃったのはちょうど夏の王子から秋の末王女への過渡期でした。四ヵ月前、夏の王子は秋の末王女を起こされて西の大樹の褥に身を横たえられ、秋の末王女は先日冬の姉王女を起こされ、北の氷室で眠りにつかれております。
「そうなの……」
それがはたしてどういう意味をもつのか、よくわからないまま相槌を打つ。
マテアに理解できたのは、ここの大気は大地母神の四人の子供たちが順々に統治していて、それぞれの統治の間、世界の構成は変化するということ。そしてこの肌寒い寒気や『雪』とやらが冬の姉王女の仕業であるということだった。
では森が消え、滝が見つからなかったのもその王女によるものなのだろうか? そう尋ねたマテアに、声は悲しげに答えた。
――いいえ、これは冬の姉王女の為したる事ではありません。
――冬の姉王女は<試練>を核として生み出されたため、激しい気性の持ち主で、しばしば豪雪を降らせてはわたしたちを雪面下に閉じこめたりなどなされる、厳しい方ではありますが、それでもあの姿のわたしたちを雪面下に閉じこめられるほどの雪を降らせるような、無体な真似をなさったりはいたしません。
――あなたが元の世界へ戻られた直後、この地で人間同士の大きな戦があったのです。
――わたしたちの一部はその道具として切り出され、様々な物に姿を変えられました。
――彼等の武器となり、身を守る盾や壁となり、そして死した彼等の仲間を弔うための棺や薪となって燃えてゆきました。
――滝は謀略の手段として埋められ、森は焼きはらわれました。行軍時の支障になり、かつ樹木の陰にひそむ敵を警戒しての事です。