彼女が降りてきた斜面の中腹あたりにあるひび割れから流れ出ている水は穢れの黒霧を寄せつけず、月光を弾いている。いたるところで水面が黄金色に輝き、波打ち、まるでこの地上界における聖域のようにマテアには感じられた。
こんなすばらしい場所へ導いてくれた鳥や木々たちに丁寧に礼を言い、水辺に歩み寄る。まるで光の破片のようにきらきらと宙を飛び散る水飛抹までが月光に染まっているようで、そのまぶしさに目を細めた。
体が熱かった。木々の天蓋からはずれて月光の下に一歩踏み出した途端、肌という肌が張り、じくじくとうずく。
サナンの言ったことは正しかった。月光界ではただの一度たりと浴びたことのない、比較にすらならない強力な月光がここには満ちあふれている。なんという力か。ベールや衣服を間に挟んでいながら、共鳴のあまりの強さに自身が炎を発しているように感じられて、思わず自らを抱きしめ身を震った。
強すぎる。サナンから前もって教えられていたとはいえ、まさかこれほどのものとは思わなかった。これだけの力を毎日浴び続けたなら、きっと自分は十日と生きていられないだろう。水を与えられすぎた植物のように、きっと生きてはいられない。
そのことに、月光神の慈愛をますます確信した思いでマテアは膝をつき、指を組んで天上の月にむかって祈りをささげた。馬車・月輪を駆る、りりしい御姿を思い浮かべながら。
祈りを終え、立ち上がると同時にベールがするりとはずれて落ちた。拾い上げることもせず、おもむろに帯を解く。
強すぎて、常に浴び続けることはできなくとも、この一時だけなら大丈夫だろう。ここに蓄積されている月光力を、水を通して自分の内側へとりこむ。そうすればあのサナンのように強い<
直接浴びてとりこむには、この月光はあまりに強すぎた。
衣を脱ぎおとし、素早く水中へ入る。ひんやりと気持ちのいい水の感触に、銀の魚のように身をくねらせたマテアは滝壷の近くまで泳ぐと一度底までもぐり、全身に水滴をまつわりつかせながら上半身を出した。
水底はそう深くなく、一番深い所でせいぜい胸までといったところだろう。流れの勢いもさほど強くない。腰の深さの中央まで戻ったマテアは前にかぶさってきた横髪と頬との間に手をさしこみ、指を櫛がわりにしてゆっくりと梳いた。
伝う水滴の一つ一つからみずみずしい月光力が彼女の中へ流れこんでくる。
少しずつ、少しずつ、自分の内側を満たしてゆく強い力を感じて、マテアは有頂天になっていた。布が水を吸うように、肌という肌が月光力を吸いこみ、全身に巡らせる。まるで熱く輝く光のかけらが散っていくようだ。
もっと、もっとと掌で水をすくい、肩にかける。両手で掲げ、ふりまく。そうするたびに、ずっと胸に抱いていた不安――ラヤと合一するのは無理なのではないかとの思いが溶けて薄れ、消えてゆく思いで、夢中になって水を浴び続ける。マテアは、ほんの少しも気付いていなかった。鳥のさえずりが激しくなったことに。木々のざわめきが乱れたことに。
マテアが周囲の異変にようやく気付いたのは、鳥も木々も口をつぐみ、なだれ落ちる滝の音以外何もしなくなったとき。そして、いつの間にか水辺に立っていた青年と目をあわせた瞬間だった!
生まれてはじめて見る、闇色をした髪と瞳、浅黒い肌。驚きに見開かれたその不可思議な瞳を直視した直後、マテアの中で急速に膨れ上がった熱い塊が弾けとんだ。頭の中で何かが激しくぶつかりあい、白い火花が散って目がくらむ。一番案じていた、異世界人に見つかったという現状はあまりにおそろしすぎて、現実と認めることができず、金縛りにあったようにほんのわずかも動けない。だがやがて彼女はそれが事実であることを認識する。月光を浴びて、強い<
目に見えないたくさんの手が一度に思い思いの方向へ引っ張っているような、心がずたずたに引き裂かれる痛みに堪えきれず、マテアは声にならない叫びを全身であげた。刹那、まるでその叫びが目に見えるものへと変化したように、それまで彼女の全身を包んでいた金色の輝きが彼女から離れ、岸の青年へと襲いかかる。はたしてそれは何か。何か起きたのか。それがどういう事なのか。考える理性は、ひとかけらも残っていなかった。あれば、闇雲に逃げ出したりはしなかったはずである。
とにもかくにもこのとき。
大急ぎで岸に戻ったマテアは木の枝にかけていた衣やベールを胸にかき抱き、脇目もふらずまっすぐ森の中へ駆けこんでいった。この場から一刻も早く遠ざかること。それ以外の何も、マテアの頭にはなかったのである。