夜がきた。
月光神がこの月光界とは異なる世界へ界渡りをし、その地に慈悲の光を投げかけている間のほんの十数時間、月光界は完全な暗闇に閉ざされてしまう。一日の四分の一にも満たない時間。それを『夜』と呼び、月光界の住人たちは休息の時間としているのだった。
そして、この月光神の守護が一番薄れる闇の中で活動する者は、ごくごくわずかな、選ばれた者たちだけである。
聖女たちが居室をかまえる青月の宮と民のための礼拝堂やその他の施設をかまえる紅月の宮との中央、ほぼ南よりにある主神殿の奥深くで眠りについている月光母や月光聖女の身辺警護のため、警邏する若者数十名と、そして異界にいる月光神にむかって祈りをささげる月光聖女が三交替制で一人ずつ。今夜は、マテアがそのうちの一人に入っていた。
マテアたち中堅の聖女には朝早くから光雫華の蕾を摘むという役目があり、本来この役目は年若い聖女が割当てられるのだが、頼みこみ、今夜だけ代わってもらったのである。
主神殿の祭壇で焚かれた炎に投げこむための香木と、祈りで渇いた喉を潤すためのはちみつ水の入った小さな甕、それから足元を照らすための光雫華を一輪手に、マテアは自室を出た。
もう夜半近く、明日の作業のため、誰もが床についている時刻である。どこもかしこもしんと静まりかえり、マテアが一歩進むたび、シュルシュルと鳴る衣擦れの音が廊下の隅々まで響く。主神殿に続く回廊に入り、青月の宮を出ても人の気配はどこにもない。この回廊は祈りをささげる聖女のみが歩くことを許されている回廊なのだから、これで当然なのだが、それでもマテアはどこかで誰かが見ているのではないか、ふいに柱の陰から現れ声をかけてきたりはしないだろうか、不安でたまらず、祈りの儀式用の着衣の上からかぶるようにしてまとった薄衣のベールの下で俯きかげんになりながら足早に進んでいた。
どきどきと、今この瞬間に破れておかしくないほど胸が鳴っている。喉までこみ上がってくる動悸に邪魔をされ、息も満足にできない。未だかつてない速度で全身をかけ巡る血が、強張った肌の下でこれ以上ないほど熱く燃えているのをマテアは実感していた。
これから自分がしようとしている事は、絶対の禁忌だ。決して行ってはならないとされている事。もし発覚すれば、どのような罰を受けるか――想像もできない。それがよくわかっているからこそ、こんなにも心は震えあがり、失心してしまいそうなほどおびえているというのに、反して足は立ち止まることなく前に動いている。目は前方だけを見つめ、振り返りもしない。
今マテアの心にあるのは、他に方法はないという思いと、そしてラヤへの思慕だけだった。それ以外の、胸底でのたうち暴れているものを形にしてしまったなら、たちまち決意が崩れてしまうだろう。それ以上進むことも戻ることもできず、まるで幼な子のように不様にこの場で泣き崩れてしまうに違いない。
ラヤ。おねがい。わたしを守って……!
ぎゅっと目を閉じあわせ、主神殿の廊下の両側に連なる月光神・月光母の巨像から顔をそむけて足早に通りすぎる。広間に続く外階段の下で警備にあたる若者たちの持つ小さなあかりに気付き、一度だけ足がとまった。人影がこちらを向いた気がして、ぎこちなくそちらに向け、会釈をする。距離があるためはたして彼等に見えたかどうかは定かではない。心苦しさが思わずさせた行動だった。したあとで、しなければよかったかもしれない、不審に思われはしなかったろうかと淡い疑念がよぎったが、すぐに振り捨てた。
光雫華の蕾の小束をさしてある柱の間を縫うように歩き、最後の柱を曲がって祭壇のある大広間へと入る。最奥の祭壇の前に設置されている祈祷用の台の上では、宵からの当番の聖女が祈りをささげていた。
ベールをはずして腕にかけ、深呼吸の後、そちらへと歩みよる。名も知らない年少の聖女は、近付くマテアの気配にすぐに気付いて振り返った。祈りの最中は口をきいてはいけない。交替の聖女が旧知の聖女でないことに彼女は少しとまどいを見せたものの、理由を問おうとはせず、互いに無言のまま、きまりにのっとって交替の儀を行う。儀を終え、台を降りた彼女が台上のマテアに一礼をし、去って行くのを見送ったマテアは、香木を握りしめることでどうにか気付かれずにすんだ手の震えをようやく解放した。長引く緊張に氷のように冷え、麻痺した指で光雫華を横の机に置き、運んできた香木を祭壇に並べる。
もう後戻りできない。
この行為について、あれから何度も何度も考えた。後悔しないと決意し、心を凍らせたはずなのに、いざこうして祭壇の前に立つと、その威光に我が身ごと溶かされ、慈悲を請うべくひれ伏してしまいそうだった。
月光神は界渡りをしている。世界のどこにもいないというのに、まるで彼そのもののように祭壇にかけられたレイリーアスの鏡は純粋な月光の波動を輻射していて、彼女の邪まな考えを見抜いて弾劾しているように思えた。
台上からは触れられないとわかっていながらも、そっと、鏡に向かって指先を伸ばす。
なんと暖かく、優しい波動だろう。
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その心を裏切ろうとしているのだ、わたしは。