あれは何?
闇の中、どことも知れぬ山道を走りながら、マテアはそれだけを繰り返していた。
あれは何?
人の通りの絶えて久しい、獣道と称していいほど荒れた小道を、左右の枝葉が複雑にからみあうことで天蓋と化した木々の合間からさしこむ細い月明かりだけを頼りに走り続ける。見開かれた青銀の瞳は、まるで彼女の無茶を諌めるように前をふさいだ枝々の姿を映してはいたが、心に届いていなかった。
わたしに触れると痛いよ。その清らかな肌が切れる。尊い血が流れてしまう。転ぶと危ないから、走るのはもうおやめ。
両側に連なる木々が、己の意志では動けぬ身ながらもなんとかして彼女を傷つけまいと枝の先端を揺らし、さわさわと、葉をこすりあわせてはその耳元へ囁きかけるけれど、彼女の心には届かない。薄衣をからませた両手を胸のところで固く握りあわせ、押しつぶさんばかりに奥歯を噛みあわせることで、どうにか正気を保ち続けようとする――それだけで精一杯の彼女には、木々の囁きを聞きとるだけの余裕はなかったのだ。
そして木々の忠告通り、小道へと伸びた枝々がピシピシと彼女を打ち、肌のいたるところを浅く傷つける。いくつも、いくつも。
胸が、痛い……!
握りあわせた手の力をさらに強める。
これほどの恐れを、自分は知らない。
自分という卑小な器では受けとめきれない、器をはるかに凌駕する巨大な恐怖が支配しようとしている。それは、一片の慈悲もみせず、すべてを破壊してしまうに違いなかった。
なんておそろしい。できるものなら気を遠ざけてしまいたかった。それがどれほどたやすく、またもっとも己を楽にするに効果的な手段であるか、彼女は知っている。けれどもそれを選べば後に何が待っているのかも、彼女は知っていたのだ。
意識を手放すのは簡単だ。ほんの少し、力をゆるめればいい。それだけで意識は途切れ、この苦しみから解放されるだろう。しかし、そうしたならばきっと、自分は狂ってしまう。目を覚ましたところで正気には返れない。
とまれない。あまりに恐ろしくて、とまれない!
今足をとめたなら、この背後より追いすがる怪物のような記憶――到底堪えられない恐怖によって『自分』は壊れ、もはや元には戻れない。だから走らなくてはならない。恐怖に追いつかれないために。わたしがわたしであるために。ああ、でも!
永遠に走り続けることなどできはしない。
助けて! 誰か、誰か……!
この世界に存在する、あらゆるものから自分を保護し、絶対の優しさで包んでくれる存在を求め、闇雲に前へ向かって手を伸ばす。指に触れたしげみを掻きわけた彼女の前が、突然開けた。すぐ先に、崖の先端が見える。
崖。これ以上道はない。
よろよろと転がり出、もつれる足でその場に倒れ伏す。もう走れないと、全身が訴えていた。先を争って突き上げてくる熱い動悸が気管をふさぎ、ぜいぜいと全身で呼吸をする。肺が痛い。鉄槌で猛打されているかのように頭がずきずきする。肌のすぐ下で、燃え盛る炎という蛇の大群が暴れているみたいだった。
一瞬たりと薄れることのない、我が身を襲う痛みに彼女は何度も何度も咳きこんで、額を地にすりつける。
「う…………」
口元にあてた手を伝って流れ落ちる、涙。あふれてとまらない。
あれは、何?
マテアはこの世界を形成するものすべてに向かい、問い続けた。