でも。ファナゼットは。
ルクスがこの世界に留まったことを否定されることを、認められそうになかった。
「――ルゥは、戦ったわよ」
するり、と自分の口から言葉が出てきた。
「ほら、銃も持ってるでしょ。戦ったけど、レイヴンって、なんかバチバチした攻撃で気絶させてくるじゃない。そのせいで、あたしが起こすまで伸びてたの」
「攫う人以外を気絶させるなんて、聞いたことないけど」
「はあ? アンタ、随分あの悪魔のコトに詳しいのね。でもおあいにく様。あたしは嘘なんて吐かないわよ」
そう。ファナゼットは規範を大切に生きていて、だから、嘘なんて吐いたりしない。
そんな性格を知っているらしく、相手はそれ以上言い募ってくることなく押し黙った。ルクスへと向けられていた排他的な視線も、そのほとんどがすうっと薄れていった。
「ファナ……?」
ただひとり、ファナゼットがはっきりと嘘を吐いたのを――決まりを守れなかった裏切者を庇ったのを認識しているルクスだけが、信じられない、とばかりにこちらの顔を見上げてくる。
「余計なコト言わないでよ」
そう、耳元に囁いて。
「お父様。ルゥの家、こんなだし……その、ミリさんも、いなくなっちゃったし。ルゥのこと、ウチに泊めてもいいでしょ?」
「……今晩だけなら、特例として構わんけどな」
低い声で父親は言う。
「明日以降はダメだ。あの建物は、リーダー……パライソ総括の任を帯びた一人と、その血縁しか寝泊まりしてはいけないことになっているんだ。その子は住まわせてやれんよ」
「…………じゃあ、あたしがここに泊まるのは」
「それもダメだ。子供は外泊してはいけない。そういう決まりだよ、ファナゼット。それに、もう日も暮れる」
子供は夜に出歩いてはいけない。
自分の目標であり敬愛すべき相手たる父親へと反発するか、ファナゼットは本気で葛藤した。しかし、その袖をくいくいとルクスが引っ張った。
「これ以上は」
そう小さな声で言われ、ファナゼットははっとして立ち上がる。
「……分かった。じゃあ、あたしは家に戻るわ。……ルゥは?」
「建物の構造的に、崩れたままでもこの部屋は大丈夫だと思うから」
「そ。じゃ、また明日、見に来るから。精々お茶でも準備しときなさい」
「うん。また明日ね、ファナ」
手を振り、別れる。
決まりは守らなければいけない。集団の中で生きていくためには。いつかパライソのリーダーとなるためには。
そういう正しさを、諦めたわけではないけれど。
けれど、間違っていると思ったのだ。そんな正しさのためにルクスを殺すことが正しいはずないだろうと思ってしまったのだ。
ルクスだけだった。母親の遺した機械を完璧に直してくれたのは。ルクスだけだった。口うるさいファナゼットと一緒に遊んでくれたりしたのは。
ルクスだけだった。ファナゼットが繋ぎ留められたのは。
それが、正しさでなくてなんだというのだろうか?
ファナゼットは、正しく生きようと決めている。リーダーの娘だから。母親が死んでしまって、リーダーの子供は他にいないから。その正しさの意味が今日、少しだけ変わった。それだけだ。
自分の信じられる正しさのため、自分自身の持つ正しさのため、ファナゼットは戦うと決めた。
パライソが大切なのは変わらない。次期リーダーをやめるつもりもない。
でも、自分はルクスを守ってしまったのだ。自分だけが、ルクスを守れたのだ。
ならば自分だけは、最後までルクスを守ってみせよう。
†
だから、ファナゼットは決めている。
ルクスの脅威たりえる全てを決して許しはしない、と。変異生物であろうと、レイヴンであろうと、人であろうと。決してルクスを傷付けさせはしない、と。
だから。
「何なのよ、アンタはッ!」
ファナゼットは、銃を構えていた。まっすぐに、白いレイヴンへと――この一週間を共にした、アデルへと。
手が震える。照準が定まらない。十歳になって武器の使用を許可されてから、ずっと銃の練習は欠かさなかったというのに。心臓へ銃口を向けようとしても、なぜか手が動いてはくれない。
それに、目の前の白レイヴンは、少しだって動こうとしなかった。逃げることも、ファナゼットを殺しにくることもなかった。
ただ、裁きを待つかのように静止したままで。
けれど、それでもファナゼットは撃たねばいけなかった。目の前にいるのはレイヴンだから。
それが、ファナゼットにとっての正しさだから。
ちらり、と。視界の端で、ルクスが叫んでいるのが見えた。見えてしまった。ルクスのことを、ファナゼットは守らなければいけなかった。
指が、ほんの数ミリだけ、動いた。
高い、一発の発砲音。
†
レイヴンの母船が近付いた影響は甚大で、かなりの数の建物がその下腹部に押し潰されるようにして倒壊した。
ただでさえ満員御礼なパライソである。せめて仮のものでも寝泊りできる場所を作らねばと、大人たちは忙しく夜通しで復興作業を続けていた。
そんな集落を少しだけ外れた場所に、ファナゼットはいた。
レイヴンの襲撃。訪問客の正体がレイヴンであったこと。機械牢に捕らえていたレイヴンの仲間がどうやってか脱走してしまったこと。
そんな異変だらけの今日一日において、締めくくりとなる異変がもうひとつ。
「……なによ、べかべか光っちゃって」
集落にほど近い位置にある天穿つ巨塔・バベルが、どういう訳か青い光の線をまとっているのである。それは、レイヴンの肌を走る赤い光に少しだけ似ていた。
まぶしく感じるほどの光量ではない。だから困ることもない。ただ、いつもと違うだけだ。
星空だって、昨日までとまったく変わらずに輝いている。
南の低い空に、ひとつ、赤みがかった星がある。それを、ファナゼットは漠然と見上げていた。
そうしたまま、数十分は経っただろうか。
小さな足音がした。
「『子供は夜で歩いては行けません』、ええと、『子供は集落の外に出てはいけません』。じゃ、なかったっけ?」
振り向くことなく、ファナゼットは答える。
「あたし、もう十四だし。子供じゃないもの」
「十八までは子供っていうルールだよ?」
「そうだっけ? 忘れちゃったわ」
「まったくもう」
すい、と隣にルクスが並ぶ。
「バベルを見てたの?」
「別に、何かを見てたってわけじゃ……だいたいそっちこそ、夜で歩いたらいけないのよ。ルゥはまだ十三でしょ」
「ほとんど変わらないよぉ」
少しの沈黙。
それはいつかのように居心地悪いものではなくって、ただ、お互いが隣にいるという安心感からくる穏やかな静寂だった。
ひと薙ぎ、荒野の上を風が滑っていく。
「……ごめんね、ファナ」
ぽつり、ルクスが呟いた。
「なに謝ってんの?」
ファナゼットが訊くと、ルクスはふふっと小さく笑う。
「ううん。やっぱり今の取り消し。ありがとう、ファナ」
「何がって訊いてるんだけど」
「わたしのこと、いっつも守ってくれて」
別に、とファナゼットは目を逸らす。
引き金を絞ったあのずっしりとした感触が、まだ指先から抜けていない。服の端に手をこすりつける。それでも消えない。
コロッケを作っていたときのことが、浮かぶ。
「ルゥはあたしがいないとダメなんだから。機械いじりに集中し過ぎて、ゴハン食べ忘れたりするし」
「あはは。気を付けまーす」
ルクスはつま先立ちでくるりと回ると、片手をファナゼットへと差し出してきた。
「ほら、ファナ。そろそろ帰ろ?」
「……うん。そうね」
その手を掴む。
あのじっとりとした重みが、すうっとルクスの体温に溶けて薄れていった。
「……あれ?」
ふと。
視界の端に見えたものへ、ファナゼットは首を傾げる。
「どうかしたの、ファナ」
「んー……いや、気のせいね。レイヴンなんて来るせいで、すっかり気が立っちゃってるみたい。戻りましょ」
「そう? ならいいけど」
ルクスと並び、ファナゼットはパライソに戻る。
だって、あり得ないだろう。こんな夜、荒野を誰かが歩いているなんて。それも、いつかのミリとルクスのように旅ができそうな装備をしているわけでもなかった。
だから、一瞬見えたような気がした紫紺をした影は、見間違いに決まっているのだ。
……その幻覚が少しだけアデルに似ていたような気がして、ファナゼットは大きくかぶりを振る。
いつか後悔するのだとしても、今晩だけは。守れたその温度だけを、想っていたかった。