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7-8【星灯りへと】

「……ベル。またな」

 なんとかそう言って、エレンは小部屋を出る。アデルもそれに続いた。

「さよなら」

 そう、一言呟いて。

 もたもたしてはいられなかった。アナウンスがカウントを始める。

 ――残り十秒。九、八。

エレンとアデルは適当な座席に並んで座ると、表示されたホロディスプレイの指示通りにいくつかのベルトを装着して体を固定する。

 ――七、六、五。

 荷物はそれぞれ片腕に抱いて、もう片腕が余った。自然、二人はその手を繋ぎ合う。

 ――四、三。

 結局、RaSSについての仔細をアデルに聞く時間すらなかった。まあいいか、とエレンは思う。これからも、一緒に並んで進むのだから。

 今、訊いてみてもよかったのかもしれない。けれど結局、エレンは黙ったままでいた。今は、今だけは、ただ、手のひらにあるアデルの体温だけを感じていたかった。

 ――二、一。

 心臓が鳴るのが分かる。アデルの手が震えている。カウントは止まらない。

 ――ゼロ。

 ぐおん、という奇妙な浮遊感が体の全体を覆った。しかしそれもすぐになくなって、静かな唸りと振動だけが二人のことを包み込む。

 フロートバイクに乗っていたときのほうが、よほど速度感があった。天へと向かっているのだ、という実感はまったくといっていいほどに湧かない。窓でもつけてくれていたらいいのに、なんて思いすらする。

 それでも、この丸部屋は天へと向かってあの高い塔を上っていっているのだろう。ホロディスプレイ上には、高度を表す数字が明滅していた。凄まじい速度で増えていっている。

 離れていく。荒野で目を覚ましてから日々を過ごし、歩き、人々と関わった地上から、エレンの知る世界の全てから、凄まじい速度で。

「……質問、する。怖い?」

 アデルがそっと訊ねてくる。すっかり馴染んだ黒い眼帯が、無機質な白い照明を反射して優しい光沢を帯びていた。エレンは微笑み返す。

「いや。大丈夫、大丈夫だ」

 腰には光子銃が差してある。老人が直してくれて、ルクスがメンテナンスをしてくれた銃だった。ゴドリックから貰った食料だって、まだ荷物の中に残っている。

 それだけではない。そういう、形のあるものばかりではない。アデルの話し方だとか、エレンの考え方だとか、きっとそういうものの中にも誰かがいた。繋がっていた。だからきっと、大丈夫だった。

 エレンはひとりではない。二人きりでもない。

 思う。

 あの老人は、未だひとりあの都市遺跡にいるのだろうか。エレンに多くを授けてくれた、あのぶっきらぼうな彼は。

 あの退廃しつつも穏やかな日々が、一日でも長く続いていくように。

 ゴドリックは、上手くやっているだろうか。レヴィの食料生産施設は、まだきちんと稼働しているだろうか。

 生き続けると決めた彼に、ささやかであろうとも、優しい光が降り注ぐように。

 パライソは大丈夫だろうか。自分たちのせいで、ルクスとファナゼットがややこしい目にはあっていないだろうか。

 互いを想う彼女らの優しさが、理不尽に簒奪されることのないように。

 エレンは、そういうことを想った。

 それらは、いくつもいくつも連なる祈りだった。

 生きていてほしいと、続いていってほしい、と願った。誰に頼まれるでもなく、ただ、そうしたいと思った。何の意味もないのだとしても、それでも。

 いつか、アンと一緒に地上に戻って。

 物知り同士、ルクスとは上手くやれる気がする。あの偏屈じいさんだって、案外いろいろ教えてやったりするかもしれない。ゴドリックはその様子にカワイイだのなんだの言って、ファナゼットがぎゃあぎゃあ騒ぐ。アデルが少し離れた位置からそれを見ていて、ふと、誰かがそちらを見る。その手を引き、輪の中に入れる。アデルは少しだけズレたことを言って、そう、自分は笑いながらそれにツッコミを入れたりなんだりして。

 そうしてみんなが笑っているのを、エレンは幻視した。

 おかしな話だった。アンさえ連れ戻せれば、他には何もいらないはずだったのに。

 唐突に。

 ばちん、と照明が落ちる。

 事故か何かかと思ったが、すぐにアナウンスが入る。曰く、エネルギーを節約しています。到着まではまだ十数時間あるため、その間はゆっくり休んでください。

 暗い部屋のなか、アデルの鮮烈に赤い瞳が輝いている。その奥に、何か、優しい青をした光が見えた気がした。寒い夜空にぽつねんと浮かぶ星のような光だった。


 ここは酷い世界だ。

 痛みと絶望に満ち満ちて、未来などは思うべくもない。終わりは人々へも、レイヴンへも、変異生物にすらも平等に、すべての肩へと手をかけている。きっと、順番が少し違うだけだ。レヴィに住んでいた人々も、災竜も、楽園を目指していた男も、エレンも。

 それでも、希望を持ってしまう。

 前に進むことを願ってしまう。

 闇はひたすらに深く重く広がるばかりで、果てに光があるのかすらも定かでない。道はあまりにも細かった。

 それでも。

 それでも、アデルが隣にいてくれるというのなら。

 エレンの隣を、居場所だと思ってくれるのならば。

 進むことができると、そう思う。思ってしまう。何が待ち受けていようとも。


 エレンの心は、まだほとんど空っぽのままで。

 アデルの持つ意味も、ほんのささやかなもので。

 それでも、ふたりは上っていった。傷だらけで継ぎ接ぎだらけの魂ふたつが、ひとつきりでは拡散して消えてしまうであろう仄かなものが、寄り添いあって。

 ふたりならば、アデルとならば、この先もきっと進んでいけるだろう。

 そんな予感を、優しく輝くそのすべてを焼き付けるように、ゆっくりと瞬いて。

 ……エレンは、目を瞑る。

 瞼の裏に、たくさんの光の粒が瞬いているのが見えた。

 手に、温もりを感じていた。


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