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7-7【あまねく注ぐもの】

「――無様ですね、流民」

 背後から掛けられた声に、エレンはびくりと振り向いた。

「あれだけ大見得を切っておいて、まさかエネルギー不足などという初歩的な問題に躓いているとは。愚昧である、という評は変更しなくてもよさそうだ」

「【β】。やはりあなたか」

 紫紺の色彩をまとったレイヴンに、あのさざなみにも似た感情の揺らぎは見受けられず、すっかり元の怜悧な雰囲気を取り戻して薄く笑った。

「【α】。無事なようで何よりです」

「……質問する。エレンに妙な情報を流したのも、あなた?」

「さあ、どうでしょう。今は雑談に興じている場合でもないと思いますがね」

 足音もなく小部屋に入って来た【β】は、「なるほど」などと呟きながら操作パネルをひとしきり眺めると、

「ここ、ですかね」

 躊躇いなく、片手をパネルに置いた。

 かちゃん、と何か小さな音。

『エネルギー源を確認。アブソーブモードでのシステム運用を開始します』

「要求、手を放して!」

 鋭く、アデルが叫んだ。

「説明……それは、本来バッテリーを接続するためのパネル。そのままでは、【β】。あなたのエーテルが基底領域まで吸い尽くされる」

「知っていますよ、もちろん」

 笑ったままの【β】から、エーテルの赤い光が薄まった。それをエレンは確かに見た。

「実のところ、結構前から話を聞いていましたので。今すぐエネルギーを補充しなければいけないのでしょう? 待機していて正解でしたね」

「【β】。そのままでは死んでしまう」

「はい。そうすれば、【α】――いいえ、アデル。あなたが死ぬ必要はなくなる」

 真っ直ぐに、【β】はアデルを見つめた。

 どこか、晴れやかな表情だった。

「この役目は、私が引き受けてあげましょう。エレンさん、アデル。あなたたちは進むべきだ」

「バカ言うな!」

 ようやく状況を理解して、エレンは声を張り上げる。

「諦めるのはやめたはずだろ!? そうだ、【β】も一緒に来ればいいじゃねえか! なにも、そんなことしなくたって……!」

「では訊きますが、愚かな流民。私がエネルギーを供給しないで、どうやって軌道エレベーターを動かす気ですか」

 エレンが黙っていると、【β】はやれやれとばかりにため息を吐いた。

「すべてを拾いあげることなどできはしませんよ。選ぶ必要がある。私は選ぶことができます。……それに、言ったはずだ。私は終わらせ過ぎたのだと。こんなこと、何の償いにもなりはしないでしょうけれど……あなたたちが未来へと進むその手伝いができるというのなら、少し、救われた気持ちになる」

「そんなこと、死ぬ理由にはならないだろ」

「なるんですよ。……ふふ。私はもう、未来を信じることが、できないのです。でも」

 【β】は、順繰りにアデルとエレンに視線を合わせた。

「あなたたちのことは、信じられる。信じさせてほしい。世界に光があるのだと」

 力づくでも引きはがせないか、とエレンはパネルに置かれた【β】の腕を見やって、そこで気が付く。

 変幻武装、というやつだろう。【β】の腕は、パネルの端に楔のようなものを打ち込んで固定されていた。決して離れぬように、と。

 それでもいっそ腕を落として、と重い心で一歩踏み出したエレンへ、【β】が短く「止まれ」と命令する。

「それ以上近づくな。あと一歩でも踏み出すのなら、私はあなたを殺さねばなりません」

「は!?」

 言葉通り、その腕が刃のかたちを取る。エーテルブレードではなく、ただの無骨なカーボンブレードだった。

 切っ先は、まっすぐにエレンの心臓に向けられていて。

「私ひとりなど、もとより問題ではないのです。天より注ぐ【黎明】を、止めなければいけない。あらゆる流民とレイヴンのために。あなたたちなら、あるいは――」

 どういう意味だ、と訊こうとしたところで。

 ごうん、と地鳴りのような音がした。

『メインシステム起動完了。【Bifrost】は残り三百秒で発進します。ご利用の方は、座席についてお待ちください』

「あら、思ったより早いですね」

 死刑宣告のようなそのアナウンスにも、【β】が恐れる様子はない。

 彼女が引き下がることはないのだろう、と思った。説得するには、余りにも時間が短すぎた。

「では、手短に。みっつ、お願いがあります」

「……お願い?」

「命が対価ですから、頼み得かと思いまして。まず、そうですね。アデル、こちらに来てほしい。私はパネルから離れられませんから」

 警戒しつつ、といった足取りで近寄ったアデルが近寄ると、【β】は拘束されていないもう片腕を伸ばす。

「あなたの特殊機能ならば、私の特殊機能を受け取ることが可能でしょう。このまま私ごと消えるのももったいないですし、持って行ってください」

「……特殊機能にはプロテクトがある。故にコピーは不可能。無理やりライブラリ化した場合、あなたの方にあるデータが消失する」

「それでいいですよ。むしろそれがいい。機能はレイヴンの根源だ。言い方を変えましょうか――アデル。私も、連れて行ってください」

 アデルははっとしたように硬直し、ぎこちなく頷いた。

「了解した。受領する……コマンド:【継照a priori】」

 アデルも片手を差し出す。純白と紫紺、ふたりのレイヴンの手が重なり、ぎゅっと指が絡まった。その手の中に、青い光が浮かぶ。

 ほんの数秒のことだった。すぐに光は消え、手も離れる。

「……完了した。自分はあなたの特殊機能及び一部メモリを継ぎ、RaSSまでの運搬を約束する」

「ええ。よろしくお願いしますね」

 エレンには理解の及ばないやり取りだったが、何か大切なことだ、というのは分かった。

「それから、ふたつ目ですが。【γ】のことを頼みたくて」

「……がんま?」

「正式名称【γ―delta】。言うなれば、私とアデルの妹ですね。あの子はまだ地上に遣わされたこともないですし、せっかく天に戻るのならば、少し気にかけてあげてほしい」

「……自分には、あまり【γ】と関わったログがない」

「私はそれなりにあります。良い子ですよ。レイヴンなんてものにしておくのがもったいないくらいに」

 皮肉と自虐を込めた【β】の言葉へ、アデルは悲しそうに目を伏せた。

「……【deltaシリーズ】で一番新しい子ですから。未来というと、私はあの子が思い浮かぶ」

 そのタイミングで、また地鳴りのような音が響いた。

『【Bifrost】は残り百秒で発進します。ご利用の方は、速やかに座席へとお座りください』

「せっかちなシステムですね。それじゃあ、最後のお願いですが――これは、エレンさんに」

「お、俺?」

 てっきりアデルへとレイヴン特有のやり取りをするのだとばかり思っていたエレンは、急に名前を呼ばれて居住まいを正す。しかし、自分をずっと愚かだの愚昧だのと称してくる彼女が、果たして何を頼んでくるというのか。

「そう難しいことじゃない。ただ、私もアデルと同じになりたいと思いまして」

「同じ?」

「名前が欲しい、ということです。【β】なんて、数字の2と呼ばれるのとそう大差ありませんし」

 まさか【β】から――冷たく合理的たる金属のような質感すら覚える彼女からその手の発言が出るとは、とエレンは少々驚いた。

 しかし、当たり前の話だった。エレンが彼女の何を知っているというのか。全部合計したって、ほんの数時間程度しか言葉を交わしていないのだ。知らないことが多すぎる。

 それを、永遠に知らないままでいるしかないのだとしたら――せめて、名前くらいは憶えていたい。そう思った。

 しかし、時間がない。もうあと何十秒かも分からない。

「……じゃあ、ベル、とかは」

 とっさに出てきたその名前は、アデルと同じような命名法則に従った単純極まりないものだった。

 だから馬鹿にされるだろうと思ったのだが――しかし、紫紺の彼女は笑った。

「いいですね。鐘、鈴……綺麗な名です。ええ、私は今からベルという機体名であると、内部データも更新しておきましょう」

 ごうん。

『残り五十秒です。ご利用の方はただちに座席へ移動してください』

「そろそろ行ったほうがいいでしょう。ここのエリアは地上に残りますから、このままだと意味もなく空っぽの箱を打ち上げただけになりますよ」

 もう、【β】――否、ベルの体からはエーテルの光はすっかり失われていた。

 けれど、その意味から、今だけは目を背けなければいけない。エレン知識や準備や――ひいては、覚悟のなさが招いたことだった。けれど、進むしかなかった。

 進むしかないのだ。

 食料調達もままならぬ老人を都市遺跡に置いて、一人きりとなったゴドリックを空っぽのレヴィに置いて、まだ混乱の只中にあるだろうパライソにいるルクスとファナゼットの無事も確認せず。

 光が見えるほうへと。


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