「……俺はさ。バベルがエレベーターだってことも、アデルがいなきゃ分かんないままだったと思うんだよ」
振り返る。最初に出会い、料理を囲みながらした話を。
「それにアデルがいなきゃアルカでとっ捕まって終わってたか、
何の話か、と言わんばかりにアデルが怪訝な顔をする。
構わず、エレンは言葉を続けていく。
「この通り、俺は弱っちい流民だし、向う見ずだし、天……あー、RaSSの知識もないだろ? アデルが一緒に来てくれなかったら、多分すぐに死ぬぜ」。
「否定する……そんなのは自分じゃなくたって、他のレイヴンをを味方に付ければ……ログを確認。ここを開錠したのは【β】のはず。そう、【β】と一緒に行けばいいと提案する」
「……アデルがさ。一緒に、飯を食ってくれただろ。一番最初にさ」
それは、ただフル・ペーストを揚げただけのコロッケもどきのことだ。
「誰かと一緒に飯だなんて、本当に……本当に、久しぶりだったんだ。マトモに料理したのも、マトモに味が分かったのも」
アデルが食べてくれたから、次こそはもっと美味しいものを作って喜ばせてやろうと思えた。ささやかなことだ。それでも確かに、エレンは未来を思っていた。
この世界は、黄昏を越えた闇の中にある。
それでも、痛みでも苦しみでもない優しさだけを携えた日々があるのだと。
「アデルじゃなきゃ駄目なんだよ。俺にはアデルが必要なんだ」
だから、とエレンは微笑む。だから。
「アデルに何もないんだったら、俺を理由にしてくれないか。俺のために生きて、天へと一緒に行ってくれないか」
返事はなかった。
アデルは俯いて、黙ったままだった。
――ああ、ダメだったか。
そう、エレンは目を瞑る。視界が真っ暗になる。
自分の差し出せる言葉はすべて出した。それでも届かないというのなら、もう、どうしようもない話だった。エレンがこれまで間違え過ぎた、というだけのことだ。
激情のようなものはなかった。ただ、申し訳ないな、とだけ。
そう、静かに思ったところで。
「……ひとり、なんのよすがもなく彷徨っていて」
震えきった声が、暗闇に響いた。
アデルの言葉だった。
「自分には……寂しい、という概念すらなかったが……否定……しかし、寂しかったのだ、と推測する……。天にも帰れず、流民には恐れられ、どこにも居場所なく、ずっとずっと、ひとりきりで……」
エレンは、無表情のままで都市遺跡を歩き続けるアデルの姿を幻視した。灰色をした瓦礫のなかに、ひとつ、真っ白な彼女がいる。帰る場所もなく、行く先もなく。
ただ、歩いている。歩く先には何もない。
目を開く。アデルは俯いたままで一歩近付いてきた。
「エレンは、あなたは……当然のように、自分を食事に誘った。否定的な対応をした自分の分まで料理を作ってくれた。そうして、自分に居場所を与えてくれた……」
もう一歩。もう一歩。
「エレンが、自分を必要だというのなら。まだ、自分の居場所があるというのなら。推測、する……これは酷く身勝手な、感情、なのだろうけど、赦されるというのなら」
体が触れ合う直前の位置にいるアデルが、つい、とエレンの顔を見上げた。
「あなたと、一緒にいきたい」
その赤い隻眼から、一すじの涙が零れていた。
「けれど……けれど、否定。自分は、きっとまた壊してしまう。自分はルクスを裏切った。友達だと、彼女は自分を定義してくれたのに……」
「ルクスはまだ、アデルのこと、友達だって言ってたぜ。ルクスが手助けしてくれたから、パライソを脱出できたんだよ――ああ、そうだ。伝言があったんだった」
すっかり伝えそびれていたそれを、エレンはやはり意味の分からないままで告げる。
「ええと、『機械、つけっぱなしだと電力がもったいないです』、だってさ。ルクスの部屋の機械、どれか使ったりしたのか?」
「…………」
信じられない、と言わんばかりにアデルの目が大きく見開かれる。
「確認。本当に……本当に、ルクスがそう発言した? 自分を友達だと言ったのは、それと同じタイミング?」
「え? そうだけど……」
「…………そう、か。理解」
何が分かったかは不明だが、ただ、アデルの表情から張り詰めていたものがいくらか消え去ったのが見て取れた。
だから多分、大切なことだったのだろう、とエレンは思った。
「行ける」
はっきりと、アデルが言った。
「自分は……天へ行ける。しかし――進言。エネルギー不足の問題が残存している」
「ああ、そういやそんな話だったな……」
すっかり回り道をして戻って来たその問題点に、エレンはぐっと眉根を寄せた。
「まあ、ゆっくりバッテリーなんかを集めるしかないんじゃないか? 旧都市遺跡なら、エーテル入りの道具もあるかもしれないしさ。時間はかかるだろうが」
「否定する」
困ったようにアデルは首を傾けた。
「自分が、【Bifrost】の起動準備を完了した。説明する……当施設は非正規のエネルギーを充填する場合起動状態である必要があり、今回の使用で起動電力も使い果たしてしまう計算で――」
「悪い、さっぱり分からん。馬鹿でも分かる説明で頼む」
「今から一時間以内にエネルギー補充をしないと、この軌道エレベーターは二度と使用できなくなる」
簡潔な説明だった。
「……時間をかけてられない、ってことか。一応訊くが、他の軌道エレベーターに心当たりは?」
「データベースを検索……不明。【Bifrost】が第一号機であるゆえ、仮に存在したとしても建造途中である可能性が高い、と推測する」
「レイヴンの母船を奪うとかは」
「母船は生身の人間が生存できる環境でない。具体的に、酸素の供給等がない」
「そりゃ死ぬな……」
レイヴンは無呼吸でも大丈夫らしい、という新たな知見を得つつ、エレンは他の案を考える。
しかし、駄目だった。いくら考えても思いつかない。だからこそ、エレンはアデルに出会うまでずっと停滞したままだったのだ。
それでも思いつかないといけなかった。ここで思いつけなかったら、きっと。
「――提案、する。やはり、自分の基底エネルギーを使用してはどうか」
アデルが、そういうことを言い始めるから。
「進む理由があると思えただけで良かったと、自分は、そう――」
「駄目に決まってるだろ」
きっぱりと言う。
「なんとか、一時間以内に思いつく。だから大丈夫、とにかく一緒に天に行く方法を……」
空しい響きだった。そんなものがあるのなら、エレンはアデルと出会うことなくとっくに天へと向かっていたことだろう。
刻一刻と時間が過ぎていく。天への道が閉ざされつつある。それを開く鍵は、しかし何があっても使うわけにはいかなかった。
この世界は不条理だ。
流れる時間に歯噛みしながら、エレンは信じてもいない神へと怒りを募らせていく。
一緒に来てくれると、アデルがそう言ったのだ。一緒に天へと行けるのだ。だというのに、どうしてそれすら許してくれないのか? ただ、一度きり軌道エレベーターを動かせたらいいというだけなのに。
「……エレン。時間が」
「待ってくれ、もう少し……大丈夫、大丈夫だから……」
思いつかない。何も。すべてをひっくり返せるような冴えたやり方など、どこにあるものでもないのだ。
それでも、存在しないそれを見つけないといけない。見つけないと、アデルが――。