がくん――とまるでつんのめるかのように、いきなり二人の体が減速する。どころか逆に、そのままふわりと宙に浮かび上がっていく。
どういうことかと周囲へ視線を走らせてみて、エレンはアデルの背後に広がるそれに気が付いた。
翼だった。
左は元々から生えている機械翼、リィングラビティである。しかし失われていたはずのもう一方の翼はもっと生々しい質感で、鱗と皮膜に覆われている。
「それ……
「肯定する。以前ライブラリ化した災竜……Ω・第七号の機能を
そのまま飛んで穴からバベル内部へと戻るなり、アデルはエレンを解放したかと思うと、ぐっと顔を寄せてきた。突然の行動に、エレンは慌てて半身を引こうとする。が、肩を掴まれて阻止された。
「アデル!?」
「エレン。このようなこと、二度としないで」
「ああ……悪い、巻き込んで」
「そうではなく……そうではなくて」
ふるふる、アデルはかぶりを振り、ぱっとエレンから手を離した。
「自分は……あなたを天へ送ろうと思っている。だというのに、あなたが死んでは意味がない」
「ああ――じゃあ、バベル……じゃなくて、【Bifrost】の解析は終わったんだな? 動かせるんだな? なら、やっぱり一緒にさ、」
「肯定……そして、否定する。解析は終了した。しかし、共に行くことはできない」
「……どういう意味だ?」
「動かない原因は単純だった、と説明する」
そう言いながら、アデルは操作パネルを弄る。ピピ、と電子音が鳴った。
『エネルギーが不足していマス』
どこかのスピーカーから、あまり質の良くない合成音声が響く。それは、エレンの持つ懐中電灯やらの充電が切れたときのアナウンスに酷似していた。
「えっと……電気が足りない、のか? それだけ?」
「肯定する」
てっきり自分の理解できない超技術的な原因があるのだとばかり思っていたエレンは、肩透かしを食らったような気分になる。充電切れで動かないために神話の塔になぞらえられたなど、建設した旧文明が少々気の毒だ。
そういえば、前回はアデルがエネルギーを吸わせて起動していた。そんなことを思い出す。
「じゃあ、バッテリーか何かを探してくるとか……ああ、パライソに充電ポートがあったよな。あそこから電気を引いてくればいいんじゃないのか?」
「否定する。絶対量が不足している」
「どのくらい足りないんだ?」
「……五つほど、違う」
アデルにしては珍しく、もごもごとはっきりしない言い方だった。エレンは首をひねる。
「確かに大した量だが……五倍くらいなら、何日かかけてバッテリーに詰めて……それから、他に生きてる発電施設を探せば、なんとか……」
「否定……する。五倍ではない。桁が……ゼロの数が、五つほど」
絶句してしまった。
エレンは計算が不得意ではない。むしろ、単純なものであれば素早くできる方だ。それでも、ゆっくりと指を折って数える。間違いかと思ってもう一度、もう一度――しかし、結果は変わらない。
「……十万倍、ってことか?」
「推定値、だが。しかし進言……安心してほしい。自分は解決策を用意した」
そうか、よかった、とは言えなかった。エレンはなんとなく、アデルが次に何というかを察してしまったから。
「……自分の基底システムに、エーテルが残存している。エーテルは電気エネルギーよりも膨大な熱量があり、これを全量使用すれば【Bifrost】を一度だけ動かすことができる」
「……そうしたら、アデルはどうなるんだ」
「機能停止をする」
「死ぬってことか」
「……肯定」
ああ。
エレンは大きくよろめいた。
それならば、アデルがエレンを追い払おうとしようとした理由も分かる。分かってしまう。
傷つけまいとしたのだ。この優しいレイヴンは、エレンが他人を犠牲にして進んでいける人間ではないことを知っているから。他人ではなく兵器として、心なきモノとして、敵として、エレンが己の骸を躊躇いなく踏み越えていけるように。
けれど、その不器用な自己犠牲すらもエレンの行動によって無駄になった。
「駄目だよ、そんなのは。一緒に天に行くって、そういう約束だっただろ」
「否定する。先も言った通り、自分はその約束を受諾していない」
「そうだな。うん、その通りだ。だからさ。これは、俺がアデルと一緒に行きたいって、ただそれだけなんだよ」
「……そんなことを、言われたって」
大きくかぶりを振るアデル。
「無理……もう、無理。自分にはもう、RaSSへと戻る理由がなくなってしまった。自分は、兵器でいたいと思えない」
「でも、足の調子が悪いんだろ。それに目だって、天人じゃないと治せないんじゃないのか?」
「否定……発言を訂正する。戻る理由だけではない。自分にはもう、進む理由がひとつだってない。説明……自分は、罪深い、バケモノだから」
エレンは、【β】の話を思い出した。
「……レイヴンが、元々は流民だって話か」
こくり。沈痛に首が振られる。
「解析の結果として、自分の素体の個体名はミリ――ルクスの、姉だった」
エレンは瞠目する。
「分かるだろう。自分は、ルクスを騙していた」
「でも、それは……アデルのせいじゃないだろ……」
「まだレイヴンとしての使命に従っていたときは、自分の意思で流民を殺したこともある、と説明する。だから同じこと。自分には流民と関わる資格はないし、かといって兵器に戻ることもできない。中途半端なバケモノだ」
アデルは薄く笑う。彼女を兵器でいられなくさせたのは、他でもないエレンであるというのに。
「苦しい……ひどく、苦しいと思う。終わりにしたいと。自分にはもう、存在するに足るだけの理由がない」
本当に正しかったのだろうか、とエレンは思った。
アデルは最初よりもずっと柔らかくなって、丸くなった。この世界で生きるには脆すぎるほどに。硬く角ばっているままのほうが、傷つかずに済んだのではないだろうか?
目を瞑る。
死んだ灰色の都市にぽつんと佇む、真っ白なアデルの姿が浮かんだ。
――なにを、今更。
内心、エレンは自分へと苦笑いをした。
ここまで来たのだ。こうして向かい合っているのだ。過去を思っても仕方がない。今と前、進むべき先だけを見据えると、そう決めたはずではないのか。
思うに。
エレンは、諦めてなどいなかったのだ。
ただ、怖かった。
だって、天がどういう場所であるかの仔細を聞いてしまったら、アデルと別れねばならないその瞬間のことだってはっきりと分かってしまうだろう。
もしも、流民の収容場所とレイヴンの帰還場所がまったく違うところにあったとしたら?
いや、それならまだいい。真に恐れるべきは、侵入者の立場となるエレンのことをレイヴンのアデルが捕らえる立場になり、戦わざるをえなくなることだった。
最初、協力関係を持ちかけられたときは、そういう結末もあり得るかもなとぼんやり想像していた。
けれど、今は少し考えるだけで恐ろしい。考えたくもない。自分がアデルを撃つところも、自分がアデルに斬られるところも。この優しい白レイヴンが、もしも自分を殺したとして――きっと、それすらも深い傷になるだろうから。エレンは、アデルを傷付けるしかなくなってしまう。
認めよう。
確かに、エレンは目を逸らしていた。子供じみた現実逃避だった。前を見ることを怖がっていた。
それは、呆れた怯懦に間違いない。
その一点において、確かにエレンはアンよりも、すべてであったはずの妹のことよりも、アデルについてを優先した。
大切なものがあるからといって、他の大切を手放すことなどできやしなかったのだ。
つまりエレンは今、アデルと一緒にいるためここにいるはずで。