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7-3【こころのなまえ】

 たっぷり数十分も歩いてバベルに辿り着いたエレンは、すぐ違和感に気が付いた。

 黒一色であるはずの扉が、まるで縁どられるように光を放っているのである。すっかり暮れた世界の中で、それはあまりに明瞭だった。

「クソ、開か……ね、えッ!」

 全力で横にスライドさせようとしてみても、扉はぴくりとも動かない。ただ、光の文字が表面にちらつくだけである。先ほど放り込まれていた牢のそれと同じで、ロックがかけられているようだった。

 前に来たときは、ちょっと頑張るだけで簡単に開いた扉である。誰かが施錠をしたのだ。

 扉の前には、エレンのフロートバイクが乗り捨てられている。いや、それはもう浮遊してはいなかった。すべての電源を喪失し、地面の上に転がっている。

 扉を閉じたのは誰か。バイクからエーテルを吸い取っていったのは誰か。そんなもの、考えずともはっきりしている。

「アデル……」

 呟いた瞬間。

 背後に、殺気を感じた。

「――今さら、何をしようというのです」

 低い声。

「ああ、丁度いいところに」

 しかしエレンは少しも動じることなく、その闖入者に声をかける。世間話のような声色で。

「【β】。なんかこの扉の文字……ええと、権限? が要るって書いてある気がするんだけど、お前なら開けられるんじゃないか?」

「…………」

「それからさ、パライソに降りかけてるアレ」

 指さした先にパライソは見えないが、しかし、そこに近づく母船の姿ははっきり見える。もうほとんど着陸しかけ、残された時間は多くとも十分程度といったところだろう。

「【β】って、レイヴンの司令塔だったよな、確か。んで、いろんな相手と会話ができるとかなんとか……なら、お前が命令したら、アレも追い払えるんじゃないのか?」

「……何を、馬鹿なことを」

 すうっと音もなく、【β】の右腕が赫灼としたエーテルブレードに変わる。

「可能か不可能かと言えば、ええ。私はそれを開けますし、特殊機能を使用すれば母船に帰還命令を飛ばすこともできますよ。しかし――しかし、その後はどうなるというのです?」

 ブレードを真っ直ぐエレンの首筋へと突き付けて、【β】はエレンを睨みつける。

「母船を一時的に追い返したところで、またすぐ戻ってくることでしょう。あの集落はもうおしまいです。それに、【α】は――あの子に今さら何をしようというのですか。もう別行動だ、ということになったのでしょう。流民、あなたはすべてを諦めたはずだ」

「いや」

 エレンはかぶりを振る。ブレードが頬を掠め、ぴ、と鮮血が舞った。

「やっぱり、俺は諦めてないよ。パライソは無事でいて欲しいし、アデルと一緒に行きたいんだ。でも、俺ひとりじゃ無理だからさ。【β】――手を貸してくれ」

「……あなたが想定以上に愚かなことはよく分かりました。言ったでしょう。私は諦めているのだと。だというのに、どうしてあなたの蒙昧に付き合わねばならないのですか? 意味もなく【α】を苦しめることになるというのに」

「決まってる。お前が諦めていないからだ」

 瞬間、【β】の表情に激情が満ちる。

「何を、知ったようなことを! 流民、お前なんかに私の何が分かるッ!」

 ブレードがエレンの首を、命を絶とうとする。しかしそれすら恐れずに、エレンはいっそう声を張り上げた。

「噓つくんじゃねえ! お前が本当に何もかも諦めてるっていうなら、せめて苦しまないためだって流民を殺してたんなら――お前はどうして! 一年前、アデルを殺さなかったんだ!」

 ――ブレードが、止まった。

「処分されかかってたんだろ? なら、させちまえば良かったんじゃねえか! それがダメなら、お前が殺せばよかったはずだ! 一年だぞ!? 一年もひとりぼっちで彷徨い続けて――それであの優しいアイツがどんなに苦しむか、どれだけ辛くて寂しい思いをするか、お前に分からなかったはずがないだろうが!!」

「……それ、は……それは」

「それでも、長い長い苦しみを耐え抜いた先に、見合うだけの何かが……凌駕するだけの何かが、喜びが、幸せが、いつかアデルの生きる先に降り注いでくれるはずだって……なあ。願ったんだろ? 信じてたんだろ、お前は……」

 闇に覆われた世界でなお、果てに光があると信じるのなら。その光に向かうならば。

 そんな不合理を選んでしまう心の名前など、ただひとつきりだ。

「それが……それが希望じゃなくって、なんだって言うんだよ……!」

 それは光だった。熱だった。暗闇に沈む道の先を照らしうる唯一だった。

 この果てた世界において、その願いは何よりも尊い。食料の生産プラントがあろうと、変異生物の近寄らない寝床があろうと、それがなければ生きてはゆけない。

 そしてきっと、それがあれば進んでゆける。

「なあ、【β】。俺は諦めないよ。お前の言う通り、一度は諦めてたのかもしれないが……でも、もう諦めたりしない」

 アデルが希望をくれたから。

「お前がこれ以上嘘を吐き続けるってんなら、ブン殴ってでも言うことを聞かせてやる」

 無論、流民でしかないエレンがレイヴンたる【β】に勝てるはずもない。一瞬で首を刈り取られて死ぬだろう。けれど、エレンはどこまでも本気だった。

 ここで立ち止まれば、ようやく熾きた己の心に逆らうことになってしまう。生きるために死ぬのならば、それは本望というものだった。

 【β】が逡巡するようにブレードを下ろす。そのまま、数分が過ぎた。

「コマンド:【恍信ラッテンフェンガー】」

 唐突なことだった。【β】がそう呟くのは。

 少し遅れ、エレンの視界にずっと映っていた赤い光が――レイヴンの母船が、降下をやめて地上を離れ始める。

「……【β】」

「私も落ちぶれたものですね。まさか、流民ごときに説得されてしまうとは」

 自虐的に薄く笑う紫紺のレイヴンは、しかしどこか晴れやかな様子に見えた。

 【β】が扉に手を振れる。ピピ、と音がして光が走り抜けたかと思うと、それは自動であっけなく開いて入口を晒した。

「あの子が……【α】が故障し、初期化され、処分されることになった原因は、他ならぬ私にあるのです」

 静かな語り口だった。

「私の特殊機能……【恍信ラッテンフェンガー】は、あらゆる存在との意思疎通ができる能力です。それによって、私は流民が怪物などではなく人間であるということも、レイヴンの素体が流民であることも、把握していました」

「ま、待ってくれ。レイヴンの素体が、人間って?」

 黙って聞こうとしていたエレンは、しかし覚えのない情報に口を挟んでしまう。

「あら? 【α】は気づいたようでしたが、あなたは知りませんでしたか。レイヴンはみな、流民を素体とした生物兵器なのですよ。……それを聞いて気持ちが変わるようでしたら、この扉はまたロックをかけますが」

「い、いや、そんなさらっと……呑み込めないっていうか、めちゃくちゃ驚いてるっていうか、さらっと急に言われても信じられないんだが……」

「本当ですよ」

 そんな一言で納得することなどもちろんできないが、今は問答している場合ではない。ぐっと堪える。【β】がそんな嘘を吐く理由も思い浮かばなかった。

 それに、レイヴンが――少なくともアデルと【β】のふたりがあまりに人間らしいことは、それで説明がつく気がした。

「……まあ、いったん信じておくよ。どの道、アデルがアデルなことには変わりないしな」

 ならいい、と【β】が浅く頷く。

「――そういう真実を知って、私は思ったのです。可愛い姉妹機や、攫われてくる流民たちを救うことができないか、と。単機ではもちろん無理ですから、【α】に協力を要請してみて……あの子は優しいから、真実を聞いて酷く心を痛めました。優しいことを、あの子自身が思い出してしまったのです。それはレイヴンには不必要な感情でした。それに、まさか天人の飼い犬が天人の手を噛めるようにできているはずもない」

 そうして、アデルは故障した。

「酷いものでしたよ。生きながらにして、体のあちこちが崩壊していくのです。天人が機能停止させていなければ、遠からずして全身が融解していたはずです」

 それを、【β】は目の前で見届けたのだ、と。そう、彼女は淡々としたまま語る。

「前のあの子が何より心を痛めたのは……私が、【β】が悩んで苦しんでいることだった。一機だけで抱え込むなと、当機があなたを支援すると、そういうことを言いながら、あの子の左目は崩壊しました――だから、流民。……いいえ、エレンさん」

 怜悧であったはずの【β】の声は、いつの間にか酷く震えていた。

 弱々しく、まるで見た目相応の少女のようにして、すがるように。

「お願いします。あの子を、【α】を、救ってあげてください。私には、それができなかった」

「……来ないのか」

「この先はあなたの戦いです。単純な力などいくらも意味はないし、私は……未来を謳うには、少し、終わらせすぎましたから」

 ぶん、と【β】がブレードを薙ぐと、それはいつの間にか腕の形に戻っていた。それがこつん、とエレンの胸元を叩く。

 頷いて踵を返すと、エレンはバベルの中へ足を踏み入れた。

「それじゃあ、行ってくる」

「……幸運を。祈っています」

 少しだけ、エレンは笑った。

「ありがとな」


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