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7-1【光のしるべ】

 エレンは暗くて静かな場所にいた。

(どこだろう、ここは)

 ぼんやりとあたりを見回す。すると、微かにごうんごうんと何かが唸るような音が聞こえた。

 その音のほうへ、エレンは進む。

 そこにあったのは、あの懐かしい旧都市遺跡の片隅に転がるようにして置かれていた、機械だらけのプレハブ小屋だった。

『――じいさん?』

 その中心で何やらガラクタを弄っている老人の背中に声をかける。

 相手はしばらく返事も反応もしなかったが、それはいつものことだった。数分待っていると、ようやく作業の区切りがついたらしくこちらへと振り返る。

『なんだ、坊主。まだしぶとく生き残ってたか』

『ああ……なんとかな』

 彼と別れてからの色々を――本当に色々を思い返して、エレンは苦笑いを浮かべる。

『はっ。なんつー酷ェ顔してやがる』

『仕方ねえだろ。なあ、じいさん。俺さ、分かんなくなっちまったよ』

『何がだ』

『メシよりも寝床よりも大事なモン、ってやつが。俺、一体なんのために生きてるんだろうな?』

 老人は鼻で笑った。

『思春期か? ケッ、ガキが一丁前に悩んでるフリしやがって』

『そ、そんな言い方はねえだろ! 俺、本当に悩んでて……!』

『悩まねェよ、終わったヤツは。女を連れ込んできたりもしねえ』

 エレンは言い返そうとした。けれどなぜだろうか、この老人を目の前にしていると、いつだって相手の主張が正しいような気がしてならなくなってしまうのだ。

 それは、老人の根底に横たわっている深い深い影によるものかもしれなかった。

『ったく、馬鹿が。見誤るなっつっただろうが』

 くるり、老人はガラクタのほうへと向き直ってそれをがちゃがちゃ弄り出す。

『命を燃やすためにいっとう大切なモンを、そのためにくべるべきモンを、前のオメエは分かってたじゃねエか。なあ?』

『……でも、嘘だったんだ。全部俺の勘違いで、俺は死にたがってたらしい』

『は。じゃあ訊くがな、坊主。オメエはどうしてアイツをここに連れてきた』

『アイツって?』

『レイヴンだよ。あの、幽霊みてえに白いレイヴン』

 どうして、と言ったって。

 そんなのは、全部終わるための下準備だったに決まっている。ただ、壮大な物語の内で感動的な死を迎えるためだけの。

『本気で言ってんのか? ふん、だからお前はガキなんだ。――いいか、エレン』

 あれ、と思った。

 都市遺跡に住む流民は、お互いに深堀しあったりしない。だからエレンはこの老人の名前も来歴も知らないし――それは、老人の側だって同じはずなのに。

『思い出せ。目を逸らすな。テメエの命に燃えるモンは何だ? テメエはどうして、どうやってそこに辿り着いた?』

 プレハブ小屋の中が暗くなっていく。機械の駆動音が遠ざかっていく――。


 エレンは白っぽい部屋の中にいた。

『やっぱり君は愚かだね、エレン君』

 その正面に、筋肉質な若い男が立っていた。

『……レオ』

『ここにいたら良かったんだよ。この理想郷に。食料もあれば安全も保障されていて、他に何がいるっていうんだ』

 そこはアルカの中、独房代わりに使われている一室だった。

『……生きているだけっていうのは、嫌だったんだ』

 力ない声で、エレンはそう返す。

『毎日毎日同じ場所で、同じ奴らと、同じようなことをして……』

『恒久的な平穏。それが幸福というものだろう、素晴らしいじゃあないか』

『……そうだな。そうだったかもな』

 けれど、エレンは外に出ることを選んだ。レイヴンと戦うことを選び、結果、理想郷から追放されたのだ。

 過去は戻らない。

 あれからたくさんの痛みを越え、エレンはとっくに違う場所にいる。この緩やかな監獄に戻ることは許されないのだ。

『俺も、ここで骨をうずめていたらよかったのかもなあ……』

『その通りさ。それに愚かと言えば、一緒にいたあの女もそうだ』

 嘲笑するようにレオの口角が歪む。

 瞬間、空虚だったはずのエレンの胸の内にかすかな赤が熾きた。

『君なんかについて来て、君なんかを庇ったりして。損得勘定もできないのか? ええと確か、そう、アデルっていう名前だったっけ――』

『アデルを馬鹿にするんじゃねえ』

 その赤は、怒りだった。

『そうさ、お前の言う通り、俺は馬鹿だったよ。俺なんか外に出なきゃよかったんだ。――でも、アデルは、アデルはな。ずっと一人で、兵器として扱われていて、誰に教えられたはずもないのに、それでもこんな俺なんかを庇ってくれたんだ。その優しさを否定する権利なんざ誰にもない』

『やっぱり君は愚かなままだね』

 憐れむようにエレンを見下ろすレオ。そこで気づく――彼の瞳にあるのは恐怖や怒りや不安ばかりで、ひとつも光がないことを。

『君はこれからも愚かだし、そのためにこれからも失っていくんだろう。エレン君、行ってしまうといい。愚かなままで、この世界のどこへでも』

 白い部屋がかたちを失っていく。レオの憐憫すら遥かに霞んでいく――。


 全身を包む温かい感触に目を開くと、いつの間にか多量の湯の中へと身を浸していた。

『なにもかも終わりにしたいって、そうは思わないの?』

 低く迫力ある声にそぐわぬたおやかな話し方で、ゴドリックが問いかけてくる。

『こんなふざけた世界の中に、本当に明るいものなんてあると思う? すぐに夜が来るわ。何もかも覆っちゃうくらいの暗い夜が』

『……でも、おっさんは見つけたじゃねえか。親父さんからの手紙を』

『そうね、ええ、そうなの。だから、アタシは終われなくなっちゃった。いくらこの先が暗くたって、この灯と一緒に生きていくしかない』

 ゴドリックは本を持っていた。どうしてか湯気の中でも一切湿気っていないそれは、表紙だけが少々不格好な岩蜥蜴の皮でできている。慈しむような視線と共に、ゴドリックは指先でそれを撫でた。

『結局ね、灯が必要なのよ。それだけあれば生きてけるってくらいのモノが』

『そうだな。俺にはそれがなかったんだ。全部嘘だったから』

『全部? 全部って、ヤダ! あーんなにイチャついてるトコ見せつけておいて!? ウッソでしょエレンくん、嘘だけで雷鳴塔から命綱ナシに降りてきたりできるワケないじゃない!』

『いででででで!?』

 しんみりとしていたはずが、唐突にゴドリックが大声をあげながら肩を平手でばんばん叩いてくるものだから、エレンはバチャバチャと大慌てで距離を取る。

『いってえなあ! なにすんだよおっさん!』

『あら失礼。エレンくんがあーんまりすっとぼけてるから、お姉さんビックリしちゃって』

 悪びれずにうふふと笑うゴドリックをじろりと睨んでから、ああ、そういえばこの男はこういう性格だったなと思い返す。湿っぽい空気が続くことを許さないのだ。

『こーんなひっどい世界でも、エレンくんはアデルちゃんと一緒に楽しそうだったじゃないの! あれが嘘? 強引に抱き寄せてたくせに? エレンくん、まさかヘタレ……?』

『あ、あれは場の流れっていうかなんていうか……』

『流れるままに抱きしめたの!? へえ……ラヴ、ね……』

『その気持ち悪い発音やめてくれるか?』

 じろりと三白眼気味に睨みつけると、ゴドリックはまた笑った。今度は自然で穏やかな笑みだった。

『ねえ、エレンくん。あなたはとっくに灯を持ってたわよ。アタシ、たぁっぷり見せつけられちゃったもの。その優しさを、思いを、嘘だなんて言わないでほしい』

 湯気はもうもうと立ち込めて、視界の全てを覆っていく。いつの間にか、全身をぬるく包んでいた感覚もなくなっていく――


『お兄ちゃん?』

 声が。

 懐かしい声がした。

『どうしたの。そんな難しい顔して』

 五年前とまったく同じ姿のアンが、五年前に壊れてしまったはずの家の中で、五年前とまったく同じように料理を作っていた。

『ご飯はまだできないよ。疲れてるんでしょ? そのまま座ってていいから』

『…………』

 エレンは立ち上がる。

『……お兄ちゃん?』

『――俺。行かないと』

 絞り出すように、エレンはそう言った。

 振り向いたアンは、きょとん、と首を傾げていた。

『へー。わたしを置いてでも、行きたいんだ?』

『……ごめん』

 行きたいと、思ってしまった。

 過去の約束を失っても。未来への意味を失っても。

 アデルのところへ行きたいと、ここにいる現在いまのエレンは、願ってしまった。

『苦しいよ、きっと』

『分かってる』

『上手くいかないかもよ?』

『分かってる』

 そっか、とアンが頷いた。かと思えば、なぜだかにこにこと笑い始める。

『まったくもう――でも、お兄ちゃんにも春が来たっていうなら、応援するのは妹のつとめだよねえ』

 エレンが初めてアンよりも他の何かを優先したことを、彼女は本当に嬉しそうに祝福していた。

 いや、分かっている。これは夢だ。アンはこの地上のどこにもいないし、この家だってもうどこを探しても帰り着くことなどできやしないのだ。

 だからこれは、都合の良い妄想でしかないのだろう。

 それでも、アンは応援してくれるような気がした。

 そう思えたから、言葉を紡げた。

『アデルのおかげでここまでこれたんだ。アイツがいなきゃ、災竜ドラゴンも倒せなかったし、バベルの解析もできなかったし――それに、それにさ。アデルのおかげで、俺は笑えたんだ。久しぶりに、たくさん笑えたんだよ』

 それは、いつかの約束だった。

 『お兄ちゃんはずっと、優しい笑顔のままでいてね』、と。

 それは、あの独りよがりな言葉とは違う、アンから贈られた正真正銘の祈りだった。

 だからこの一歩は、きっと裏切りなんかではなくて。

『ごめん――本当にごめん。でも、絶対に迎えに行くから。だからさ、もうちょっとだけ、待っててくれるか?』

 幻のアンが頷いたのか、何と言ったのか、それを確認することは叶わなかった。

 いつの間にか部屋は消え失せ、エレンの意識はゆっくりと浮上していって――。


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