初めから決まっていたことだろう、とアデルは自分に言い聞かせた。
アデルは初めからレイヴンだった。エレンは初めから流民だった。レイヴンは流民を攫うものだし、流民はレイヴンを恐れるものだ。
どちらかが悪いのだとしたら、それはその関係性を始めたレイヴンの側だろう。
おかしくなっていたのだ。
思い出す。昔のログを――まだ、【α-delta】であったときのことを。
ひとり、都市遺跡を探索していたのだ。そこに流民がいた。まだ幼い子供だった。
子供は他の流民に追われていた。会話内容から分析するに、資源の奪い合いであるようだった。子供に銃を向けた壮年男性の流民を、アデルは変幻武装によって射殺した。
子供はきょとんとして、アデルの存在と状況を認識して、それから微笑んで、言ったのだ。『レイヴンのお姉さん、ありがとう』、と。
アデルは返事をせず、そのまま子供を【
そういうことを、稼働開始から追放命令を受けるまでのわずかな時間の中で、何度も何度も行った。
ならば、身の内を走り回るあまりに多量のエラー通知も、同一性の保持ができずに左目と同様崩壊しかけている片足のことも、中枢機構を苛むような幻の痛みも、すべては自業自得でしかない。
意味もなく部屋を見回していた赤の瞳が、ふと、機械群のうちの一角を捉えた。それはいつかにルクスが大切そうな視線を向けていた、生体解析系――生き物の構造を調べるためのものと思しき巨大かつ複雑な一機だった。
目を覚まそう。そう思った。
あれは多分、対象の遺伝子やらなんやらを解析するための機械だ。RaSSにも似たようなものがあったために、操作方法もなんとなくの推測ができた。あれにアデルを解析させてみれば、自分が人間とはまったく異なった存在であることがはっきりデータとして現れることだろう。
その揺るぎない事実によって、アデルは目を覚ますのだ。
機械を起動し、浮かんだホロディスプレイの要求してきた所有者認証はなぜかそのまま認証された。故障しているのかもしれない。ともかく機械を操作して、アデルは全身にスキャンのレーザー光を浴びる。
少しのロード画面の後、解析結果が表示された――のだが。
「……これは。エラー……?」
ホロディスプレイ上に表示されたのは、アデルを解析したのは二度目であるという簡素な表示だった。
もちろん、アデルがこの機械を使うのは初めてだ。しかしもしかしたら、元々この機械はRaSSにあったもので、検査のために自分へと使用されたことがあるのかもしれない――などと推測しつつ、アデルは細かい解析結果を辿っていった。
しかし、おかしい。
おかしいのだ。
「……どうして、レイヴンに人間と同一のDNAが」
そういえば、と思い出す。もう遥か昔のように感じるあの都市遺跡にて、エレンの知り合いだという流民の老人に体を調べられたときのことだ。鋳型がほとんど人間じゃねえか、と。確かに彼はそう言っていた。
この機械はナノマシン製か否かを分析できるものではない。あくまで対象にある遺伝子の配列のみを読み取る装置だ。
たとえば
不可解なことがあった。
今のアデルには、不合理な思考があまりにたくさん萌芽している。そうなってみて思い返せば、同胞たる【β】と【γ】も時折不可解かつ不合理な発言ないし行動を見せていた。
レイヴンには――少なくともdeltaシリーズのレイヴンには、感情がある。それが兵器にとって不必要な要素であるにも関わらず。
もうひとつ。
天は――RaSSは、非常に深刻な資源不足に陥っている。エネルギーだけは【炉】の生み出すエーテルによってほとんど無尽蔵に近いものの、それ以外の何もかもが足りないのだ。ゆえに、レイヴンは地上から様々な資源を運んでいる。その資源には流民さえも含まれている。
しかし、そのレイヴンを作るためのリソースは、果たしてどこから来るものなのだろうか?
生物兵器の優れている点は、素体がある分追加のリソースが少なくて済む点にある。
いや。
まさか、そんなはずは。
縋るような心持ちで、アデルはディスプレイ上のデータを隅から隅まで確認し直す。どこかにこの仮説を否定する何かがあるはずだ、という祈りと共に。
そうして、それを見つけた。
「……このデータは?」
DNAというのはつまり情報のかたまりだが、そこには空き容量がある。非コード領域と呼ばれるその空隙はたかだか数ギガバイト程度の大きさであるものの、簡単なデータであればこっそりと隠し込むことすら可能なのだった。
アデルの非コード領域に、見知らぬデータがあった。
開く。
それは写真のようだった。ほんの数ギガバイトに複数枚収められたそれは、空間投影どころか音声や動きすらない、ただ一瞬を切り取っただけの簡素な画像データである。
そこに写っている蜂蜜色の少女のことを、アデルは知っていた。
「ルクス……」
自分のことを友達だ、と称した流民の少女。この部屋の主。
いや、画像データ上の少女はルクスよりもずっと幼い。まだ片手の指に収まるほどの年齢だろう。それに、あのいつもぽやぽやとした笑みを浮かべているあの少女からは考えられないほどに無表情だ。どこかアデル自身に似てすらいる。
けれど、その幼い少女はルクスだった。そう断言できる。
そして、その隣にもうひとつ流民の姿。
明るい茶髪をした女性だった。幼いルクスといかにも仲が良さそうに手を繋いで不器用なピースサインをする彼女は、恐らくルクスの姉――ミリ、なのだろう。
背景はパライソではなくて、どこかの都市遺跡であるようだった。そこで二人が並び、ピースサインを作って、写真を撮っている。
己の内に大切なデータを入れる、というのは随分前に流行した行為らしい。
大昔はロケットペンダントに家族写真を入れていたというが、それの発展形のようなものだ。容量の少なさとアクセスの七面倒さゆえに廃れたようではあるが、それが行える流民がいることに疑問はない。
問題は、なぜそのようなデータがアデルのDNAに内包されているか、という部分に尽きる。
この機械を前に所有していたのはルクスの姉、ミリで間違いはずだ。だから前回のデータが表示されているのかもしれないと推測したが、何度見てもそれはたった今スキャンしたばかりの分析記録だった。
点はよっつ。
ひとつ――ルクスの姉、ミリはかつてレイヴンに鹵獲されたのだ、という話。
ひとつ――レイヴンは生物兵器なのではないかという推測。
ひとつ――アデルの内にあった、ミリのものと思しき画像データ。
そしてひとつ――アデル自身、鹵獲された流民の行き着く先を知らないこと。
それらの要素を結んで見えるそのかたちが、真実だというのなら。
レイヴンは、レイヴンと呼ばれる人形兵器は、なんと罪深く冒涜的な存在なのか。
アデルにはアデル――【α―delta】としてのログしか持ち合わせていない。ルクスとは一週間前のあれが正真正銘の初対面だ。
だというならば、アデルはルクスの最愛の姉を喰らい尽くした存在であるにも関わらず、当のルクスと友達だのと気取っていたことになる。
それは、そんなのは、あまりにも――あまりにも。
あんまりではないか。
自分が。アデルが――ミリを、ルクスの姉たる流民を素体として改造された、生物兵器だ、というその推測を否定できる要素がない。どこにもない。
ルクスと、ファナゼットと――エレンと関わり合っているときに灯っていた心地よい何かが、アデルをアデルにしてくれた何かが、消えていくような感覚。暗くなる。真っ暗になる。思考のすべてが暗闇に消える――。
がちゃり、と。部屋の扉が開く音が、堕ちゆくアデルの思考を遮った。
「アデルさん! よかった、ご無事ですねっ!」
アデルはびくりと身を震わせて、とっさに目の前の解析機械を隠すように立ち上がる。
その様子にルクスは気が付いた風もなく、「大変なんです!」と言葉を続けた。振り返れば、ぜえぜえと肩で息をしている。どうやら相当慌てているらしい。
「質問、変異生物でも出現した?」
「それどころじゃないです! 空から、空から――」
開いたままの扉の後ろに、赤い光が見えた。
「レイヴンが、降りてきたんです!」