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6-3【砕ける】

「――おかえりなさい」

 部屋には椅子に座るアデルひとりだけがいた。

「【Bifrost】……バベルの解析はあと一時間程度で終わると推測される。予定通り、明日の朝に出発するのがよいだろうと進言する――エレン?」

 返事をしないエレンへと、アデルが少しだけ目を細める。

「体調が優れない? 進言する……ならば、出発日を遅らせても構わない。なるべく迅速な行動が推奨されるものの、体調は万全であるべき。数日程度であれば逗留を長引かせても構わない、と判断する」

 【β】の話――アデルが最初からエレンを天人に引き渡すつもりでいたのだと、だからこそエレンと協力していたのだと。それが本当であるのなら、今、目の前の彼女がこうしてエレンを気遣っているのもまた自分を騙すための演技だということになる。

 それが本当なのか嘘なのか、その差異ですらどうでもよかった。ずっと縋ってきた自分自身のともしびさえも嘘だったのだ。最早何も信じられはしない。

 そんなエレンの様子を見て、アデルは小さく首を傾げた。

 かと思えば、どこか落ち着かない様子で立ち上がり、機械が雑然と並ぶ一角へと近づく。

「それで、そう、提案がある。人間は普段と異なる行動によってストレス値が高まり、それによって体調を崩す可能性が高まる。エレン、あなたはこの六日間料理をしていない。これは今までのデータにない異常事態にあたる、と自分は判断した」

 そこに並べられたうち、黒っぽいタライのようなものからアデルは何かの乗せられた皿を取り上げた。ほかほかと湯気の上がる、砂蜥蜴色をした平べったい楕円状のものだった。

「ゆえに、代替案として――その、自分が料理をしてみた。要求――否定、提案する」

 そわそわと片眼を逸らしながら、どこか緊張したようにアデルは皿を差し出してくる。

「エレンがよければ、食べてくれないか」

 その料理はカリカリとした茶色の粒に覆われていて、香ばしい匂いがした。何かは分からなかったけれど、確かに美味しそうだと思った。ここ数日、最低限の食事しかしていないエレンの口にじわっと唾が湧く。

 作った? これを、あの毎回毎回「料理なんて不合理な行為」と言い続けていたアデルが、エレンに食べさせるために?

 栄養補給をさせたいのならば、それこそエナジー・バーでも渡してくればいい話だ。完全栄養食なのだからむしろそちらのほうが適している、と再三主張していたのは当のアデル自身である。だというのに彼女は今、エレンがはっきりと「美味しそう」だと思う料理をわざわざ作って食べさせようとしている。

 それは……つまり、それは。

 エレンの胸の内に、ひとつの明瞭な感情が這い上がる。

 恐怖だった。

 今までのアデルならば絶対しないであろう行動に、エレンは激しく恐怖を覚えていた。

 彼女は合理的であろうとする。ならば、料理をする意味はなんだ? そう、エレンがこれ以上食材に手を加えないようにするためだろう。何のために? たとえば――そう、加熱したら崩壊するタイプの毒を混ぜ込んである、とか。

 偶然、そういう毒をエレンは知っていた。神経に作用するもので、摂取すると手足などの末端が痺れて動けなくなるものだ。蛋白質に自然発生することもあるから肉はよく焼いて食うんだぞ、と言われたことを思い出す。

 アデルはエレンを天人に引き渡そうとしている。

 あと一時間足らずでバベルが使えるようになる。眠らぬレイヴンが夜に活動できないということもないはずだ。

 もしかして……もしかして、アデルは自分のことを毒で無力化させて無理やり連れて行こうとしているのではないか? そのために、邪魔になりそうなルクスもどこかへ連れて行かれてしまったのではないか?

 胸中でそんな推測を巡らせているとはつゆ知らず、黙ったままのエレンへとアデルがさらに一歩近付く。どころかカリカリに覆われた料理をつまみ上げ、こちらの口元へと突き出してきた。

「自分の製作したものに懸念があるのは理解する。が、安全性に問題がないことは確認しており――」

「っ――、それを近づけるな!」

 叫び、手を薙いでいた。

 がしゃん、と高く音が鳴る。陶器製らしい皿が砕け散る音だった。……いや。

 驚きに見開かれていたアデルの瞳から、すっと色が消え失せる。

 自分が壊したものが皿だけではないことを、エレンははっきりと理解した。耳を裂くような今の粉砕音は――あの日、旧都市遺跡で出会ってからずっとずっとアデルとの間に積み上げ、重ねてき何かが、本当に大切だったはずの何かが、どうしようもないくらいばらばらになってしまったものだったのだ。

 謝ろうとした。しかし、喉の奥からは潰れたようにくぐもった音しか出てこない。

「……そう、か。肯定。否定。そのような反応は必要ない。あなたの警戒は、恐怖は……正当、だから……」

 ゆっくりかぶりを振ってから、アデルが居住まいを正す。

「――確認。当機とあなたは、天へと辿り着くために協力をしていた。相違ない?」

 口を開いたアデルから放たれたのは、まるで出会ったときのようにのっぺりと抑揚のない声で。

「そ……う、だな」

「説明。まもなく【Bifrost】の解析は終了し、運用が可能になる。マニュアルを参照……操縦は自動制御のため、流民単独でも問題なく使用することができる、と推測」

「……単独って」

「説明を追加。天への道は確立された――もう助力は必要ない、と進言。伴い、当機はあなたとの協力関係を破棄する」

「破棄って……で、でも俺は、アデルを天に連れてくって約束を……!」

「否定。約束とは相互に交わされるものであり、当機はその文言を受領していない。重ねて説明。先の通り天への道は確立されており、あなたは当機を天へ輸したと定義もできる。どのみち、その約束に最早効力はない」

 目的も約束も、もう果たされていた。

 アデルにエレンは必要なく、エレンにアデルは必要なかった。

 あとはもう、どちらがどこでそれを口にするかの問題だったのだ。

 何を言えばいいかも何をしたらいいかもわからずに、ただ絶対にやってはいけないことをやってしまったのだ、という確信だけを滲ませながら、エレンはただその場から逃げるようにして立ち去った。


 ――約束が。

 あの日の約束だけがずっと、エレンの心を繋ぎとめてきた。

 しかしそれは【β】によって虚言であると暴かれて、辛うじて残ったアデルへの約束も消え去って。

 何もない――何もない、何もない。

 エレンには何もなかった。

 そうだ。エレンはずっと、アデルが羨ましかったのだ。あの瞳に輝く光。アルカでエレンを庇ってくれたことも、災竜ドラゴンを弔うと決めたことも、どちらも誰からも命令されたはずがないというのに、彼女はそれを選んだ。きっと、自分自身の心で。

 定義づけと約束だけで埋めたつぎはぎの心しか持ち合わせないエレンは、それが本当に羨ましかった。

 十数分ほど、エレンはのろのろ歩き続けていた。

「――あれ。お兄さん?」

 声をかけられ、エレンは立ち止まる。

「……ルクス。に、ファナゼット……」

「呼び捨てとはいい度胸ね。っていうのは置いておいて、あんた、どうしたのよ?」

「お姉さん……アデルさんは一緒じゃないんですか? おうち、戻ったんですよね」

 色味の違うふたつの金瞳が、不思議そうな色をたたえてこちらを見つめていた。エレンはゆるゆるとかぶりを振る。

「一緒じゃない。……俺が、アデルの作った料理を、断ったから」

「はあ!?」

 大声を出したのはファナゼットだった。

「断った? 断ったって、どうしてよ」

「……どうしてだろうな」

 【β】の言う通りに自分が死のうとしているならば、アデルが毒を盛っていようと恐れる理由にはならないはずだ。けれど事実として、エレンは恐れてしまった。

「ただ、腕が勝手に動いて、こう――薙ぎ払ってた」

「はあっ!? 薙ぎ払ったって……まさか、料理をじゃないでしょうね」

「そのまさかだな。俺は……はッ、俺はな、アデルが作った料理をめちゃくちゃにしたんだよ」

 パン――と乾いた音。

 頬を熱が走り抜けた。

「……サイッテー」

 じろりと蔑みの視線を送るファナゼットが自分の頬を張ったのだ、と気付いたのは彼女が片手をひらりと振ったタイミングだった。

「ふん。最初から気に食わないヤツだと思ってたけど、想像以上にサイテーだわ。あたしとルゥだって手伝ってやったっていうのに」

「……二人が、アデルを?」

「そうよ、そのアデルが頼んできたから。だってのに……はあ、こんなヤツを気に入ってるだなんてアイツも大変ね。離れたほうがいいって教えてあげようかしら。ルゥ、行きましょ」

 言うなり歩き出したファナゼットと立ち尽くしたままのエレン、二人におろおろと首を巡らせるルクスは、

「あの……お兄さん。アデルさん、お兄さんに喜んでほしくて、とっても頑張ってたんです。そのことは、覚えていてほしいです」

 それだけ言うと、ぱたぱたファナゼットの背中を追い始めた。

 どちらの言葉も、がらんどうなエレンの内に響くことはなく。

 もうしばらく歩いて、集落を出て、なだらかな弧をえがくささやかな丘の上で立ち止まった。赤褐色の砂に混じっていくらかの灰の積もるそこは、つい先ほどエレンが心を砕かれたその場所だった。エレンは地面に腰を下ろす。

 特に理由があったわけではない。ただ、そこからはパライソの姿がよく見えたというくらいで。夜と共に冷気が忍び寄ってきていたが、気にはならなかった。

 ぼうっとしたままパライソを眺めて――ふと、藍色の空に赤い光がちらついているのに気が付く。

 どこかで見たような光だった。

 あれは、そう……確か、都市遺跡にいたときに追っていた――。

「……レイヴンの、母船?」

 まさか。あれは資源の潤沢な都市遺跡にだけ現れるはずではないのか――というところまで考えてから、エレンは気が付く。

 パライソは最も大きい集落であり、その規模に見合うだけの資源がある。

 ゆっくりと、しかし着実に、母船はパライソ目がけて降下していた。集落内でも誰かがそれに気付いたらしく、エレンの距離までも薄っすらどよめきが聞こえてくる。

 ほとんど無意識のうちに、エレンは立ち上がっていた。そのままふらり、とパライソのほうへ戻って行く。

 それが何のための一歩かは、まだ分からないままで。

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