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6-2【虚】

 思わない、と言い返したかった。

 けれど、心にもない言葉を即答できるほど、エレンは嘘が上手くない。

「そりゃ……でも、ほら。他に何か見つかることだってあるだろ……受け入れて、どうにか……」

 ゴドリックの姿を浮かべる。

 返ってきたのは嘆息だった。

「親切にも希望がないことを教えたあなたへと、この男が受容を示したようには見えませんでしたがね」

「でも――」

「一応は進む道の見えているあなたには、まだ無縁なことです。……ああ、そうだ、聞いていませんでしたね。無事にRaSSへ辿り着いたとして、外殻部から内核部への移動はどうするつもりなのですか? シャトルを使うにも、【α】の権限だけでは足りないでしょう。ハッキングのアテでも?」

 聞いたこともない単語を連発されて、場の重い空気も忘れ口をぽかんと開けてしまった。

「がい……ないかく? それにシャトルって……何の話だ? バベルを上ったら天なんじゃないのか?」

「……は? どういう意図の冗談ですか、それは。今更無知を気取るなど……」

 しかし返ってきた沈黙で、エレンが冗談を言っていないのを理解したらしい。そして、それは何か激しく【β】の怒りを買うものだったらしい。

 口の両端が歪んだ。それは笑みの形をしていた。しかしそこから吐き出されたのは、黒い炎をまとった嘲笑である。

「ああ――ああ、そう。ふは、失礼。すっかり見込み違いをしていました」

「見込み違い……って……」

「あなたも私と同じ、こちら側にいるのではないですか」

 【β】が何を言ったか、その文面をなぞるためだけにも数秒の時間を要した。

 しかしいくら考えても、内容のほうが分からない。

「……どういう意味だ? 俺は人を殺したことなんてないぜ」

「自覚がないぶんタチが悪い。殺したことがなくとも、殺そうとしているところでしょう」

「誰をだよ? 俺は、コイツを」足元で気絶する男性を示し、「殺そうだなんてしてないぜ」

 【β】はゆるゆるとかぶりを振ると、その紫をした瞳を真っ直ぐエレンへと向けた。

「あなたが殺そうとしている相手は、蒙昧な流民。あなた自身ですよ」

 嗤う。

「あなたは妹を助けに行くのだと言った。であるならば、天の――RaSSに着いてからのことを具体的に考えておくのは、当然の話ではないですか」

「無茶な。地上じゃあ、天が宇宙ステーションだってことを知ってるヤツもいないんだぜ」

「【α】は? 短くない時間、あなたはあの子と行動を共にしていたのでしょう?」

 というか、宇宙ステーション云々を教えたのは【α】でしょうに、という指摘まで添えられる。

「細かな構造はレイヴンとしての立場上話せないにしても、外殻部と内核部について、なんて基礎的な情報は隠す意味もない。地上に地面があることを教えるようなものだ。――妹を助けに行くのだ、と言っていましたが。ひとつ、訊かせてください」

 目の前にいるレイヴンが致命的なことを言おうとするのが分かった。けれど、まるで断罪を受け入れる敬虔な信徒のようにして、あるいは砂呑蛇を目の前にした岩鼠のようにして、口も体も動かない。

 「愚かな流民よ」、と【β】が吐き捨てるように問いかける。目の前も見えぬ愚かな流民よ。

「あなたは一度でも、鹵獲された流民がRaSSでどのような扱いを受けているのかと――生きている可能性はあるのかと、【α】に訊ねたことがありましたか?」

 足元がぐにゃりと崩れていく感覚。いや、違う。エレンの平衡感覚がおかしくなっているのだ。くは、と厭な笑い声。それが自分の口から洩れた者であることに、エレンが気が付かなかった。

 ――ない。

 一度もない。

 それを口に出して答えられないのが、【β】にとっては答えだった。

「ふふ――愚かしい。モノのように連れてゆかれるのですから、普通は殺されているものと考えるのが自然でしょうに。まあ、その線だけは無視するにしても――真面目に救出しようというのならば、天のどこにいるんだとか、どこへ行ったら会えるんだとか、何を対価としようと【α】に訊いておくべきだと思うのですがね。違いますか?」

 違わない。その通りだ。どうして自分はそれをアデルへと問わなかったのか、愕然としてさえいた。

 不自然だ、あまりにも。エレン自身でさえそう思う。

「ならば、答えは簡単です。あなたは天へ行こうとしているのではなく――すべてを諦めたことさえ認めず、決して叶わぬかりそめの望みを抱き、それを果たすためだという素晴らしい物語の中で壮大な自殺をしようとしているのです。優しいあの子を巻き込んでまで」

 ああ、と【β】は声を落とした。ああ。それは恐らく、失望であった。

 エレンは――空っぽのエレンは、答えられない。エレンの中にはいかなる答えもない。


 エレンにとっての最初の記憶は、茫漠とした砂礫ばかりの荒野の中、幼い少女にゆすり起こされる光景である。

 何も覚えていなかった。周囲には何もなかった。ただ、一人の少女だけがいた。

 ひとつだけ。

 その少女が妹であるというただそれだけを、自分は覚えていた。

 それ以外の記憶がないのだと告げると、少女は寂しそうに笑いながら、様々なことを教えてくれた。

 自分の名がエレンであること。幼い彼女はアンということ。ここは滅びた地上であること。

 他にも、エレンは優しい人であるとか、ここぞというところで頼りになるだとか、ちょっとしたことですぐに笑うのだとか、そういう様々なことを。空洞の身を抱えた自分は、そのひとつひとつを大切に己へと刻み込んだ。すべてが不確かなこの世界で、自分自身さえも不確かなエレンにとって、それは命綱にも等しかった。

 優しく振舞うようにした。他人から頼られるように銃を練習した。笑顔を心掛けるようにした。

 アンから刻まれた言葉だけで定義されていたエレンという人間は、しかし、その唯一たる妹さえも理不尽に簒奪されたのだった。

 そのときの空洞を、何もかもが不可解へと沈んでいくような感覚を、エレンはいまだ覚えている。心臓、手足、髪、思考、身にまとう衣服、その下に横たわる大地、吹く風、遠い変異生物の咆哮、そういうものがどこからどこまで自分なのか、あるいはすべて自分と呼べるものではないのか。

 何もかも分からなくなりかけた夜、見上げた空に、レイヴンの母船が飛ぶ赤い光が見えた。

 瞬間、天啓がそそいだ。

 あれに乗れば、アンのところに行ける。

 アンのところに行けさえすれば、再び自分を定義づけられる。

 必ずアンを迎えに行く、と約束をしたのはそのタイミングだった。まさか、レイヴンに連れて行かれるのを目の前にして悠長に言葉を紡げるはずもない。だから実のところそれは約束でもなんでもなくて、ただの独り言に過ぎなかった。

 その独り言がエレンをアデルに引き合わせ、とうとう天へと続く塔まで導くに至った。

 けれど――けれど。

 結局のところ、エレンは想像できていなかったのだ。アンと再び巡り合う未来を。けれど、それを認めていさぎよく死ぬことさえできず。

 この世界と同じだ。もうとっくに終わっていて、なのに果てる覚悟だけがなく、無意味な苦しみだけを抱え続けている。いつか暗闇に還ることを夢見て。


 ――エレンひとりなら、それでもよかった。どう死のうと自由だった。

 けれど、アデルを巻き込んだ。それが到底許されないことなのは、空っぽだろうと理解できる。それほどまでに、あの白レイヴンは優しく、純粋なのだから。


 ゆっくりと、【β】がブレードを掲げるのが見えた。その赤い致命の光は、寸分たがわず気絶した男性の首へと向けられていた。

 ブレードが下ろされる。光が男性に触れる。焼ける音がする。ごろりと重いものが転がる。

 それを、エレンは止められなかった。止める資格があるのだと思えなかった。

「――あなたには、こうする価値すらない。せめてその命、上手く終わらせてあげましょう」

 ブレードは火炎放射装置に変わった。男性の体を、男性の体だったモノを灼熱が舐め、辺りの砂と見分けのつかない細かな灰に変えていく。

 それが終わると、【β】はさらに片腕を変形させた。しかしどうやら武器ではない。温度計や放射能測定器ガイガーカウンターに似ている。

 その先端がエレンに向けられた。ピピ、と細い電子音が鳴った。

 向けられたホロディスプレイには、簡素に『因子値:1,000』という文字列だけが浮かんでいる。

「これは、天人にとって価値ある流民を判別するための装置です。この数値が100を超えている場合、鹵獲してRaSSに連れて行くこととなっています」

「これ……まさか、俺の数値なのか?」

「はい。あなたにはどうやら、一般的な鹵獲対象と比べて十倍もの価値があるらしい。その価値を【α】が持ち帰れば、あの子は処分対象から一転して有用個体であると判断されることでしょう。……というか。黙っていましたが、あの子は元よりそのつもりだと思いますよ?」

「まさか!」

 声を張り上げる。

 そんなはずはない。アルカでのことを、エレンは覚えている。今よりもっと無機的だったアデルが、それでも自分を庇ってくれたことを。

「だいたい、目の前でアンが攫われたときすら、レイヴンの連中は俺をまったく気にしなかったぜ。その数値だって出鱈目だろ」

 しかし【β】は無常に首を振る。

「あなた、妙なナノマシン偽装が施されているのですよ。私は交信特化型ですから、即興で解析プログラムを作成するのに時間がかかりましたが――【α】は汎用機で、解析プログラムも内蔵されています。気付かないはずがない。あなたと協力しようと判断したのもそのためでしょう」

「そんな……そんなはずは、だって、アデルは……」

 話して、料理を囲んで、災竜の死を悲しんで、あんなに、あんなに優しいアデルが。

 全部、演技だったとでもいうのか?

 少し前のエレンであれば、何を馬鹿なと一蹴できていただろう。しかし今、己自身の希望を足元から打ち崩されたこの青年は、あらゆる全てを信じられなくなっていた。当然だ。暗闇に何かを見出すことはできない。

「――これ以上話しても無駄ですね。では、私はこれで」

 【β】が去る。エレンは動けない。日が沈む。動けない。日が沈む。

 ――ああ、そうだ。

 空っぽのままで、エレンはよろよろと足を動かす。

 ――日が暮れるまでに帰るって、約束してるんだ。

 バイクに乗り込み、南へと走り始める。何も考えてはいなかった。残照だけが、エレンを照らしていた。


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