すっかり慣れてしまった牙蟻退治を切り上げて、パライソへと戻ろうとしたタイミング。
「……ん?」
それを見とめ、エレンは小さく声を洩らした。
ぽつんとした影である。エレンはバイクの速度を緩めつつ、愛用のスコープを取り出して影のほうへと向けてみた。
そうして拡大されたのは、ぼろきれのようなものに身を包んだその姿。
「人? 随分と装備が悪いが、放浪人ってとこか……? パライソに向かってる、いや、ちょっと方角がズレてるな――よし」
スコープをしまい、再びアクセルを強く踏み直す。
恐らく、ここより北のどこかからパライソを目指して来たのだろう。それが、いつの間にかエレンとすれ違っていたらしい。
徒歩でどれだけを進んできたかは知らないが、この付近に集落らしい集落はない。相当な距離を移動してきたはずだ。その歩みの最後を少しばかり縮める手伝いをしたい、と思うのは至極自然な発想であった。なにより、このバイクは二人乗りだ。アン曰く、できる範囲で誰にでも親切にするべし。
近づくにつれ、その姿が肉眼でも見えてくる。やはり貧相な恰好をした、背格好からして恐らく男性のようだ。防塵用のマントは裾がぼろぼろに千切れ、肩には鞄ですらない雑嚢の紐をひっかけている。資源豊富な都市遺跡から来たわけじゃなさそうだな、と素性を推測してみるなどした。別の集落からの移住者だろうか、あるいはパライソも通過点であり他に目指すところがあるのかもしれないが。
そこまで考えてから、エレンは大きく口を開いた。
「おお――い、そこのヒトーっ! パライソに行くんなら乗せてくぞーっ!」
幸い、いつだったかのように実は機械翼のあるレイヴンでしたというオチもなく。こちらへと振り向いたのは、やはり男性の流民であった。
老人とまではいかないが、エレンより四回りは歳上だろう。みすぼらしい装備に違わず灰色の髪も髭もほとんど伸び放題で、頬の痩けた顔には疲労が色濃く滲んでいた。しかし、それにしては瞳がやけにぎらぎらと光を孕んでいる。
男性は返答をしようとしたのか何度か口をぱくぱくとさせ、かと思えば盛大に咳き込み始める。
「――っ、げほッ、げほ……す、すまない。ヒト、ヒトと話すなんて、なんてな、久しぶりだ……死ぬほど久しぶりだ……」
低くしゃがれた声に、少なくとも敵意はない。エレンはこっそりと腰の光子銃に添えていた手を離す。不自然な抑揚があるけれど、会話が久しぶりというのに起因しているのだろう。
奇遇なことに、エレンもまた、誰かとの会話を欲していた。
アデルのことをほとんど無視しているにも関わらず、ルクスや他のパライソ住人と歓談にいそしもうとは思えなかったのだ。
だから、男性の様子が少しばかりおかしいことはまったく気にしなかった。どころか、いったんバイクから降りさえした。同じ目線で話したかったのだ。
「ってコトは、他の集落から来たんじゃないのか? 都市暮らしってえ格好でもねえけど……」
「都市など、あ、悪魔の住むところだろう。ずうっと遠い場所からきたんだ、ずうっと……集落から、でも、もうないんだ」
「ない?」
「
「はあ。その家族ってのはどこに?」
男性はとん、と自分のことを叩いて見せた。前に雑嚢を抱いていたために実際叩いたのはそちらのほうで、がらりと乾いた音が鳴った。
「こ、ここだ。話したりは、できないが、十年以上前か? でも、ここにいるんだ」
その意味を察して、エレンはそれ以上の深堀りをやめた。
改めて男性の格好を見る。なるほど、碌な風体ではない。
考えてみれば、パライソよりも北に何があるかをエレンは知らないのだった。それはつまり、人間の行き来が不可能に近いほどの距離なり障壁なりがあるという意味に他ならない。男性が腰に吊るしているのは、まるで骨董品のような――そもそも残る道具はすべて旧文明の遺物とはいえ、それにしてもみすぼらしい――実弾銃だった。
恐らくは、相当な時間と幸運と苦しみを積み重ねてきたのだろう。
「お疲れさん、って俺が言うのも変かもだけど……まあ、ここまで来りゃ、もうゴールしたも同然だろ。【楽園】って、確かパライソの名前の由来だったよな? そこが目的地で合ってるか?」
「ぱ、パライソ? 分からない。分からないが、とにかく天、天国の祝福が残っている、地上最後の楽園だと、そういう話があった、あったんだ、うちの集落に。それがいる、祝福が必要で、オレはここまで来た」
「……天国の祝福?」
聞きなれない言葉の並びに、エレンは眉根を寄せる。
この男性は遠いところから来たのだろうから、常識や言い回しも違えているのだろう。
アルカの人々がレイヴンを神の御使いだと思っているように、天のことを本当の天国だと思っているのかもしれない。パライソは旧文明の機械がごろごろと残っていて、天は旧文明の技術を未だ持ち続ける場所であるはずなのだから、そう考えると辻褄は合う。
「芋とか豆とかの生産設備に、充電ポートとか、あー、多分繊維とか合成材とかのプリンタなんかもあるとは思うけど……必要って、何がだ?」
食料、充電、衣類、そのあたりなら入手することは可能だろう。この男性を早晩叩き出すほどにパライソの人々が容赦ないこともあるまい。
「――違う!」
しかし、男性はぶんぶんと首を横に振った。あまりに勢いがよく、エレンはぎょっとして半身を引いてしまう。
まるで錯乱しているかのような声で男性はわめく。
「ちが、違う! 祝福は神秘だ、神秘に悪魔の力はない! 人を、人を蘇らせる神秘があるのだと、オレは聞いた! はるか南の【楽園】に、亡き妻を蘇らせた男がいるのだと……オレは、家族を連れてきた! みんないる、みんな連れてきたんだ!」
言いながら男性が持ち上げた雑嚢からは、がらがらと乾いた音がする。微かに開いた口からは、ちらりと黄ばんだ白いものが覗いていた。
見えたのは一瞬のことだ。だから形までは分からなかった。
けれどその色や質感は、古びた骨のもので間違えようがなかった。
「蘇らせ……って、いくら旧文明でもそんなことできるわけ、」
「お前」
地の底から響くような声音。
「お前――悪魔だな」
エレンへ向けられたその指は、第二関節から先がなかった。
「知っているぞ、悪魔め! いつもヒトのフリをして真実を騙って! オレは惑わされない、家族とまた会う! 悪魔め、殺してやるッ」
喚きながら、男性はやおら銃を取り出すと、躊躇いなくその安全装置を外した。
黒々とした銃口が突き付けられる。思考が凍る。偏差の激しい実弾銃であろうとも、この距離で外す道理はない。
「ちょ、おい! 落ち着け、それは流石に――」
激しい雷鳴。
それを発砲音だと解釈したエレンは、すぐに己の意識が闇へ消えるのを覚悟した――のだが。
「ぁ……ぅあ……」
どういう理屈か。呻き声とともに倒れ伏したのは銃を持った男性のほうだった。
「……危ないところ、でしたね?」
その背後に、一まわり小さな紫紺の影。それが、収納していたらしい双翼を――リィングラビティを展開し直す。
その片腕は半ばから形を変え、銃のなりそこないのようになっていた。あの、腕を武器に変える機能だ。雷光を先端にまとっているところからして、どうやらスタンガンらしい。
「……【β】。何の用だ」
「あら、随分なご挨拶ですね。今、あなたの命を助けてあげたと思うのですが」
「それは――まあ、うん、助かった。ありがとな」
「素直に感謝されるのも嫌な気分ですね……」
確かに助けてもらったのだったと思い直しての謝意だったのだが、皮肉か何かだと受け取られたらしく、しかめっ面を返された。
「【α】のスペックからして、そろそろ【Bifrost】の解析も終わるころでしょう――と思って、様子を見に来ただけですよ」
「……よく分かるな。今晩には終わるはずだから、出発は明日の朝だ」
アデルとの交流をやめたとはいえ、必要な意思疎通くらいはする。今朝言われたばかりの内容を伝えると、【β】は当然でしょう、と頷いた。
「取り立てて問題ないならば結構です。では、その流民を殺しますので少々離れてください」
あまりに自然なその口ぶりに、エレンはうっかり「おう」と返しそうになった。寸前で留まる。
「殺す!? って、ソイツ、もう気絶してるだろ!」
「ええ。ですから、起きる前のほうが面倒がない」
スタンガンらしき【β】の腕が、ゆらりと揺らめくようにシルエットを変える。鋭く赤い光を放つそれは、バカげた高出力のエーテルブレード。
【死神】が、目の前にいる。
「腕だろうと首だろうと、触れただけで落ちますよ。離れなさい」
「無力化はできてるんだ、殺す意味はないだろうが!」
「意味? では訊きますが、愚かな流民。コレの言う蘇生の術を、あなたは知っているのですか」
「そりゃ、知るわけないだろ。そんなものないんだから。なんだ、間違った知識があったら殺すってのか?」
「いいえ? しかしコレは、どうやら家族の蘇生だけを希望としてここまで進んできたようだ。パライソ、楽園の名を冠する場所に、そんなものがないと知ることは、希望のすべてが絶たれることは――それが死なんてありふれたものよりもっとずっと残酷だと、そうは思わないのですか」
レイヴンらしい無機的なその表情に、しかし確かな痛みがよぎる。