エレンの様子がおかしい。
丸一日かけて彼の様子を分析し、アデルが出した結論である。
「……お兄さん、なんだか様子がおかしくありませんか?」
どうやら対面のルクスも同意見らしく、足早にエレンの消えた隣室へ続く扉のほうを気づかわしげに見つめている。
「話しかけても、『ああ』とか『おう』とかしか返ってきませんし……牙蟻と戦ってお疲れなんですかね?」
「分からない。が、それより重篤な懸念事項として、料理をしない点が挙げられる」
「お話より料理、ですか?」
肯定、と言いかけたところでファナゼットからの指摘を思い出し首肯に留める。
「エレンと過ごし始めてから
「まあ、原料が新鮮なぶん、都市遺跡の化石みたいな保存食よりは美味しいはずですし。それで満足してるとか」
「いや。それならば、パライソ到着初日に料理をした説明がつかない」
「確かに……ううん、やっぱりお疲れなんですかねえ? 大丈夫。アデルさんが心配してるんですから、すぐに元気になりますよ!」
昨日、エレンが戻って来たタイミングで異常に気が付いた。「ただいま」を言わなかったのだ。
行動パターンがいつもと異なるが問題はないのか、という質問をしたその途端に、びくりとエレンの肩が跳ねた。それだけに留まらずぐっと瞳孔が縮まり、発汗が増え、バイタルデータに様々な異常値が現れたのだ。データベースに内蔵された心理解析の記載が間違っていないのならば、それは人間が恐怖するときの反応である。
そう、恐怖していた。エレンが、アデルのことを。
特異なことではない。むしろ当然の反応だ、とさえ思う。アデルはレイヴンで、レイヴンは兵器だ。たとえそこに害意が含まれていなかろうと、銃口が見えれば生命の危機を覚えないはずがない。
少し気になるのは、どうして今になってようやく、というところだが。
アデルは流民のことを上手く理解できない。あくまで住居を貸与してくれているだけの立場であるはずのルクスが、その見返りを求めたりもせずに、むしろこうして自分を気遣ってくれている理由も分からない。だから、エレンの態度が急変したきっかけも、自分には理解しえない理由が介在しているのかもしれなかった。
ただ、寂しいと思う。
思うごとに、もう存在しないはずの左目に嫌な感覚が走る。
自分が兵器であること。そこに、アデルは確かな誇りを持っている。……持っている、と、思っていたけれど。
重みが、天秤が、少しずつズレている。そういう感触があった。
「……これは推測だ、とあらかじめ宣言をするが」
なるべく流民のそれに近い口調を心掛けつつ。
「自分は――その、生い立ちがあまり好ましいものではない。そこに原因のある可能性が高い、のでは」
「生い立ち、ですか」
レイヴンだという部分を明かすことはできない。幸い、ルクスは深堀りせずに頷いた。
「つまり、お兄さんがアデルさんのことを悪く思ってるんじゃ、ってことですか?」
「そう。肯定する」
「あははっ、まさかぁ。そんなわけないですよ!」
それこそまさかの大笑いである。
冗談を言ったつもりもないのだけれど、とにかくルクスは声を出して笑っていた。
かと思えば一転して真剣な口調で、
「わたしは、絶対違うと思います。でも、アデルさんは納得できないんですね?」
「……そう、なる」
「んー。でもそういうの、考えたって仕方ないんじゃ――って、これは受け売りなんですけどね」
こてん。
アデルが首を傾げると、「一度話したことですが」と前置きしたうえで話し出す。
「ほら、わたしが捨て子だったって話はしましたよね。そのせいでわたし、ちょっぴり暗いっていうか、卑屈な感じで。捨てられるのって、いらないものじゃないですか。じゃあわたしはいらない子なんだーって」
「ルクスの工学的技術は地上において非常に高度であると判断できる。その推測は不相応では」
「いやあ、わたしが機械いじりできるのって、お姉ちゃんに教えてもらったからですし」
「……なるほど。理解した」
「そもそもの大本を辿ると、お姉ちゃんの彼氏さんがすっごい物知りだったらしいですけど……それは置いておいて、とにかくわたしは自分に自信がなかったわけです。そこで、前に話したあれです。『ルクスは精一杯がんばってルクスをやりなさい』ってやつです」
「確かに前にも聞いた。しかし……理解ができない。ルクスは元よりルクスのはず」
「そう。その通りなんですよ!」
びしっ。
我が意を得たりと言わんばかりにアデルを指さしてから、「あ、すみません行儀悪かったですね」と頭を下げるルクス。
「つまり、えと、アデルさんの言う通りなんです。わたしは生まれたときからわたしで――まあ、ルクスって名前になったのはお姉ちゃんに拾ってもらってからなんですけど、でも、それより前だって、わたしなことに変わりはないんです」
「それと自分の話に、どういう関連性があるのか」
「過去なんて、生まれ方なんて、自分じゃどうやっても変えられないです。そういう自分を受け入れたうえで、今どうしたいかって、どの未来に行きたいかって―――そっちのほうが、ずっとずーっと大事なんじゃないでしょうか。未来は選べるんだから」
不明瞭な未来を大げさに語るなど、流民らしい不合理な――そんなことを、アデルはまったく考えなかった。
ただ、片方しかない赤の瞳をまん丸に見開いて。
「今……未来……」
「はい。だからわたしはこうして機械いじりをしてるんです。……お姉ちゃんがいなくなっても、お姉ちゃんが教えてくれたことを残したいから。それに、わたしがお姉ちゃんとおんなじくらい機械とお話しできるようになったら……お姉ちゃんが何を考えていたか、分かるかもしれない」
慈しむような表情で、ルクスは部屋の一角へと視線をやる。そこにはひときわ複雑かつ巨大な機械が据えられている。
恐らく生体解析系のものだろう、とアデルはひっそりあたりを付けた。
ルクスがこちらへと向き直る。
「アデルさんは、何がしたいですか。お兄さんの……エレンさんのこと、これからどうしたいですか」
「――自分は」
自然、その答えが口をついた。分析も推測も介在していなかった。
「料理を作りたい」
「料理……ですか?」
「そう。先の通り、エレンが料理を行わないのはこれまでにない事態。……それに、これは非常に不合理かつ論理的でない思考、なのだけれど」
ログを見返す。
アデルに殺されかけた直後だというのに、まるで当たり前かのようにコロッケを一緒に食べるよう促してきたこと。酒への耐性がない恐れがある、という申告を聞くなりアルコールを飛ばした飲料を作ってくれたこと。別にエナジー・バーで構わないというアデルへと、エレンは毎日毎日労力をかけて食品を加工してくれた。
美味しい、とは思わなかった。アデルに味覚はあるけれど、良し悪しを判別する機能がない。有機物であればなんでも――腐敗していようと汚染されていようと――エネルギーへの変換が可能なのだから、不味くて食べられない、なんて感覚があっても困るのだ。
だからいくら手間暇かけて加工されようと、苦みが三割軽減されたなだとか、一部の成分が変性しているなだとか、そういう感想しか抱けない。
けれど、恐らく。
「――自分は、エレンの料理を好ましく思っていた」
きっと、そういうことなのだろうと。
「いいですね。すっごく」
にこり、ルクスは微笑む。
「いい、のだろうか」
「はいっ。そうと決まったら、ええと、【
「……その。料理の作成はあくまで自分の要望であり、ルクスは援助しても益がないのでは」
「お友達が頑張るんですもん。お手伝いさせてくださいって、前に言ったじゃないですか」
「おともだち?」
とっさに訊き返してしまう。
無論、意味は知っている。親しく対等である人間同士の関係を表す言葉だ。しかし、誰と誰が?
すると、みるみるうちにルクスの表情が曇っていく。
「あ、わたし、勝手にアデルさんと仲が良いつもりになっちゃって……」
「自分と、あなたが?」
「すみません……嫌ですよね、えへ」
「違う……ただ、想定していなかった」
だって、アデルはレイヴンだ。ルクスは最愛の姉をレイヴンに攫われたのだという。そんな自分たちが、まさか対等であるはずがない。
けれど……そう。アデル自身はどうしたい? データベースも
「自分は、あなたに……重篤な情報を隠している」
「別に、お友達同士でも隠し事くらいしますよ。わたしだって、エレンさんの銃をメンテして徹夜したこととか、絶対ファナに言えないですし。不摂生だって怒られるから」
「あなたを酷く傷つけるかもしれない」
「わたしも今、アデルさんを困らせてますね。たぶん」
「……いい、のか? その、本当に」
はいっ、とルクスは笑う。
「わたしと、お友達になってくれますか?」
差し出された手はあまりに細く、あまりに脆い。【
儚い無意味な繋がりだ。
それを理解しながらも、アデルはその腕を取った。膨大なエラー警告が弾けた。強く左の眼窩が痛んだ。レイヴンからかけ離れた行動に、兵器としての根幹が崩れているのだろう。アデルの心が、魂が、解けつつある。
後悔はなかった。
同時に、ひとつの思考が芽生える。
もしかすると……自分は、エレンと友達になりたかったのではないだろうか? あの優しい流民の彼と、対等で親しいものに。
……少し、違うような気がした。