背中をひやりとした感触が触ったその瞬間、エレンはそれが自分の命を奪いうるものであることをはっきりと感じ取った。それは理屈のない直感だった。
刃か、銃口か、あるいは何か別のものか。その正体が何であれ、使用者がほんの僅かに腕を動かしせしめるだけで、文字通りに致命的な結末へと至ることだろう。
(……どうして、こんなことに?)
だらだらと汗の流れる感覚。
前後左右、周囲には誰もいなかった。牙蟻が襲撃してくるのを警戒していたのだから、胸を張ってそう言い切れる。ここは荒野だ。遮蔽もない。
ならば、この襲撃者はどこから来た?
「――抵抗しませんか。賢明ですね」
その怜悧な声を聞いた瞬間、エレンは彼女がどこに潜んでいたのかを理解した。
「お前――【β】か」
「へえ、覚えていますか。流民にしては賢いことで」
「むしろ忘れられるかってんだ……」
どこか無機質さを孕んだその声音は、そう、パライソへ向かうエレンとアデルを唐突に襲撃した黒髪のレイヴンのもので間違いない。つまり、上空にいたのだ。
「殺しに来たのか? 勘弁してくれよ」
呻くような声。
「日暮れまでには帰るって、必ず帰るって、アデルと約束してるんだ。もう二時間もない」
「はあ。それで見逃されると、本気で思っているんですか?」
思ってはいない。しかし黙って殺されてやるわけにもいかない。
「あなたは変異生物退治に来たのでしょう。だというのに、どうして【α】を連れていないのですか?」
その質問に、エレンは内心首をひねる。それを訊き、果たして何の意味があるというのだろう?
「牙蟻は数が多いし、それにアデルは……ほら、片目がないんだ。戦わせたくない、当然だろ」
そういう疑問はいったん押し込んで、簡潔に答えを返す。
【β】の微かな震えが背中越しに伝わって来た。まさか恐怖ではないだろう。動揺? 何に対して?
かと思えば、ひんやりとした感触が背中から離れていった。恐る恐る振り向いてみても、撃たれも斬られもしない。
背後に立っているのは、やはり黒髪に紫瞳のレイヴンの姿だ。背には双翼が開いている。
なんとなく。
なんとなくだけれど、目の前に佇むその雰囲気から、剣呑なものが消え失せているような気がしたのだ。少なくとも、すぐに殺されるということはないだろうと思った。
「てっきり、愚昧な流民があの子を良いように使っているのだと思っていました。不合理な呼称をしている時点でまさかとは思いましたが、本当に協力関係だったとは」
「あの子? って、」
「文脈で分かるでしょう。【α】のことですよ」
アデルのことを呼ぶその声色に、いつかのような冷たさはない。むしろ、ささやかな温度さえ宿っているようだった。
「お前がアデルを追放したって聞いたんだけどな」
「ええ、そうです。私と【α】は、同シリーズの番号違い……人間でいうところの、姉妹のようなものですから。それが処分されようとしている、なんて聞いたら逃がすくらいの情はある」
目を見開く。
その言葉が本当だとするならば、自分はとんでもない思い違いをしていたということになる。
「じゃあ、待ってくれ。お前は……いや、アンタは、アデルの味方なのか?」
「まあ、どちらかと言えば。姉に寄生した不埒な虫を退治しようと思ったのですが……どうやら勘違いだったようですね」
「退治って……」
少しでも問答を間違えていたら、やはり自分は殺されていたといことらしい。ぞわり、と肌が粟立った。
しかし、今はまだ訊くべきことがある。
「アデルは……このまま天、ええと、RaSSに戻ったら、殺されるのか」
それならば、今まで歩んできたすべての前提が狂うことになる。
アデルは故障を抱えている。直す技術を持つのは天だけだ。しかしその天がアデルを殺そうとするのなら、果たしてどうすればいいというのだろう? 最早、彼女に未来はないというのだろうか?
絶望的な心持ちのエレンに対し、しかし【β】はふるふるとかぶりを振った。
「そのはずでしたが――事情が変わりました。あなたと共に行くのならば、恐らく問題ない。あの片目も修理されるでしょうね」
「俺と一緒だと、何かあるのか?」
「……さあ。ところでこちらも訊きたいのですが、あなたはなにゆえRaSSを目指しているのですか?」
なにゆえもなにも、とエレンはむっとして言い返す。
「妹が、アンタらレイヴンに攫われたんだよ。俺はそれを連れ戻しに行く」
――一瞬。
一瞬【β】の顔に翳ったそれを、エレンは目の錯覚だろうとさして気にも留めなかった。
だって、おかしいだろう。どうしてこの流れで、彼女がエレンへと憐れみを抱くというのだろうか?
「それはまた酔狂な――いや、それならば問題がない、むしろ都合がいい。ええ、【α】は間違いなく修理され、処分も免れることでしょう。――このままの状態であれば、ですが」
意味深な物言い。エレンは眉根を寄せる。まるで、今よりも何かが悪化する可能性があるとでも言いたげだ。
その疑念を口にするまでもなく、【β】は言葉を続ける。
「【α】の片目が失われた原因は、他でもないあなたです」
「は」
予想外の台詞に、エレンはぽかんと口を開いた、
「いや――そ、そんなはずないだろ! なんだ、俺が人の目をくり抜くように見えるってのか!?」
「そういう意味ではありません……というか。今まで一年経っても軽微な異常しかなかったというのに、あなたと行動し始めて急に重篤な故障が発生したのだから、あなたのせいに決まっているでしょう」
「それはまあ――え? い、一年?」
さらりと流しかけたその期間の長さに、エレンはぎょっとして口を挟む。
「アデルって、確か一歳だったよな? 作られてすぐに追放された、いや、逃がされたのか?」
「……一度いまと同じ壊れ方をして、
「あー……ええと、意味が分からん」
はあ、と【β】はまたため息。
「【α】は精神回路にいくつかのロックがかけられています。感情などという不合理なものを抱かないように」
うん? と首をひねるエレン。
「それにしては、喜んだり悲しんだりしてるぞ」
「そこが問題なのです」
ようやく核心に辿り着いた、とばかりに【β】が頷いてみせた。
「本来かけられているロックを無視していれば、当然悪い影響がある。自己同一性――つまり、何があっても己の姿を忘れることがないというのは【α】の特異な能力ですが、それが失われつつあるのです。結果、左目がその形を忘れてしまった」
きゅっと心臓の縮むような感覚。
「……それがこれ以上続いたら、どうなるんだ?」
「さあ。次は右目かあるいは耳か……手足ということもあるでしょうし、もしも中枢機構や心臓部が崩壊してしまったとしたら、最早天人であろうとも直すことは不可能でしょうね」
「アンタは、どうして平気なんだ」
「それが感情の有無という意味ならば、私は【β】、二号機ですから。一号機で重篤な不具合を生じさせていたロックは当然外されていますし――それが【α】の安否に対しての反応という意味ならば、勘違いをしている。私は別に、【α】を救おうとしてはいないのですよ」
薄い笑い。
紫の瞳に夕陽が差し込み、ちらちらと怪しげな光を帯びた。
「どちらかというと、味方。そう言ったでしょう? あの子が苦しむのはさすがに忍びないですが、別に、ただ死ぬというだけならばそう酷い話でもない」
【β】はのっぺりと微笑んでいる。その虚ろな表情の意味をエレンは知っていた。見覚えがあった。
ガラクタ弄りの老人。あるいは、
――これは、何もかもを諦めてしまった者の顔だ。
「どうせ、この世界にもレイヴンにも、未来など存在しない。せめて安らかな終わりを、なんて、少々眠りの手伝いなんかもしましたが――【死神】なんて噂話で警戒されてしまって。半端に失敗して苦しめたら気の毒なので、最近は休んでいましたけれど」
「……殺してるのか。流民を」
「ご心配なく。自分が死ぬのだと理解した者すらいません――ああ、いや」
何かを思い出したように、【β】は口の端を曲げた。
「RaSSから放棄された生物兵器群のうち、
生物兵器。
彼が父親についてを話していたときのことを、思い出した。
「お前は……お前は、レイヴンなんかじゃない。アデルと同じなわけがない。何か、もっと邪悪なものだ……」
「他者の苦痛に愉悦を覚える種族にそう称されるとは、なかなか身に余りますね」
絞り出すようなエレンの言葉にも、【β】は飄々とした態度を崩さない。
「まあ、そういう訳ですから。【α】のことを考えるのなら、あの子の感情を揺さぶるのをやめるべきだ。親交を深めるなんて不合理な行為、今後一切しないことですね」
「断ったら、どうなる」
「あなた、私の話を聞いていましたか? 別にこちらに不利益はありませんが、【α】は苦しんで死にますよ。――ああ、それと、あの子に私と会ったことを話すのもよした方がいいですね。強く感情を揺さぶりかねない」
「お前がパライソを襲撃しない保証は?」
「言ったでしょう。私は流民だろうと苦しめたくはありませんし、さすがにあの規模の集落にいる人々を単身で即死させるのは不可能ですし――まあ、保証はありませんけど。仮にその気があったとしたら、あなた方に抵抗の余地などないのだから、どの道同じことだ」
反論が思いつかない。
【β】はレイヴンであり、たとえ感情にロックがかかっていなかろうと、その言葉にはまったくおかしい点がなかった。その根底に横たわる、狂気にも似た諦念の他には。まるで、深い夜を切り離したその欠片が蠢いているようだった。
「あら、そろそろ日が暮れますね。【α】を心配させるのも良くないでしょうから、そろそろ戻るべきだ」
「…………ああ」
辛うじて、エレンはそう返事をした。
頭の中を、ぐちゃぐちゃとした手触りの多くが巡る。
残り少ない時の中、せめて良い思い出を。そんな願いすら、この世界は許さないのか。
いや、分かっている。分かっていた。この世界に光などない。先の見えない暗闇だけが続いていて、いずれ自分自身も闇に還る。一切の痕も残せず、残らず、人類が積み上げてきた悠久のような歴史の末端へと溶けるように。世界はとっくに闇夜の中で、あとはもう真夜中になるまでの僅かな時を待つだけなのだ。
喜びも、幸福も、あまりに遠い。
約束が、約束だけが、エレンの中に刻まれている。そうだ、アデルを天に連れて行くと約束した。それならば、やるべきことは決まっている。
「ああ、クソッ」
エレンは自分の髪をぐちゃぐちゃとかき混ぜる。
たっぷり十数分もその場に佇んで、どうにか力なくバイクを発進させたのだった。