部屋が黒い。そして重い。
つるりとした印刷樹脂製の壁の上から、まるでそういう装飾かのようにいくつもの紙がべたべた貼りつけられている。それも、ただの紙ではない。手書きの数字やら記号やらでほとんど真っ黒になっているものだから、簡素かつ無機質なはずの
エレンの脳裏に浮かぶのは、ガラクタ弄りの老人、彼の住んでいたプレハブ小屋のことである。あそこもまた、壁にはぎっしりと数式だの設計図だのが貼られ尽くしていたものだ。しかしあれは老人が技術者だからこその産物であり、目の前のルクスはどこをどう見ても十を少し過ぎただけの女の子なのである。
ああ、なるほど、とエレンは納得する。そうだ、ここはバベルを作ったという技術者の残した遺跡なのだ。こういう頭の痛くなるあれこれが残っていてもおかしくはない。
「すみません、散らかってて。お客さまなんて初めてですからっ。いま、お茶を淹れますね」
そう言ってルクスが操作した機械――そう、機械。部屋の隅にいかにも調度ですよという顔でずらり並んでいるのは、起動中ランプをぺかぺか輝かせた大小も見た目も様々な機械の群れだった。
「質問。それは成分抽出機、あるいはそれに類するもの?」
「そうですね。余剰作物とかを入れて、あとはこっちでいろいろ調整すると、お茶とかお薬になるんです……っと」
ぱちんぱちん、軽快な手つきで機械のパネルに数字が打ち込まれる。すぐにガガガっと返答めいた駆動音が鳴り、すうっと透き通った香りが漂い始める。
ルクスは機械から湯気を立てる金属マグをみっつ取り出し、部屋の真ん中にある背の低い机の上にことんと置いた。脇のソファに座るようエレンとアデルに促すと、本人は機械のうちのひとつに躊躇いなく腰を下ろす。
座ると同時に、飲むための邪魔になるからだろう。アデルが浅く被っていた防塵用フードをひらりと脱いでしまう。後ろへと流れる白の長髪に、ルクスが「わわ」と小さな歓声を贈った。
「それで、おふたりはお付き合いされてるんですよねっ!?」
ゆっくり話す体制になっての第一声がそれだった。
エレンはがくりとつんのめる。
「期待されてるとこ悪いけど、違うからな。ただ、なりゆきで一緒にいるだけだ」
「なりゆき? ……一目ぼれ、ですか?」
「違うってえの。……ん、どうしたアデル?」
くいくいと袖を引っ張る感触に顔を向けてみると、アデルはこてんと首を傾げる。
「付き合っている、とはつまり、関わりがある、という意味。あなたと自分には関わりがあるのだから、それは付き合っているということでは」
「や、やっぱり……!?」
「違う。違うんだって、あの、あれだ。こう……俺は男だろ? アデルは女の子だろ。そういう関わりのことだと勘違いされてんだよ、この場合」
真顔のアデルと期待顔のルクスに囲まれた中ではっきり言うのがどうにも気恥ずかしく、迂遠な表現をしたエレンへと、赤の隻眼が瞬いて。
「理解。なるほど、確かにそれは勘違いにあたる」
「そうなんですか……」
あからさまにがっかりと肩を落とすルクスへと、アデルは確認するようにまた首を傾げた。
「つまりあなたは、自分とエレンを人間同士のつがい、繁しょ――もが」
「はいこの話終わり! 終わるぞ! それより話すこともあるしな!」
災竜退治の際に感極まってうっかり抱き着いてしまって以来、エレンは必要以上にアデルへと触れたりしないようにと細心の注意を払っている。それは彼女を一人の人間として捉えていることの証だった。しかし今はどう考えても絶対に必要なタイミングであり、戦闘でもなかなかできない反応速度で色素の薄い口元を全力で抑え込んだ。
幸い、手を離してもアデルが言葉の先を話し出すことはなく、内心ほっと息を吐く。
「えへへ、すみません。ここってロストしてない娯楽情報メモリもちょっとはあるんですけど、その手のは希少で……あとお姉ちゃんが苦手だったので、あんまり見たことなくて、つい興味が」
「お姉さん……レイヴンに連れていかれたっていう?」
また泣きださないかと恐る恐るの質問だったが、ルクスは薄く微笑んだ。
「はい。すみません、さっきは。ただ、初めてだったんです」
「初めて……何がだ?」
「身内をレイヴンに連れていかれた誰かとお話しするのが」
幼さの消えた透明な笑みだった。この世界があまりに深い暗がりの中にあるのを知り、それを受け入れてしまった者に特有の。
「一人は嫌だよな。他のヤツが何を考えてるかも分からないってのは」
他とは違う境遇にあるということは、それだけで透明な孤独の檻に隔てられているも同じである。エレンはそれを知っている。
「俺さ、連れていかれた妹以外に家族がいないんだよ。いや、いないっていうか、覚えてないっていうか」
「物ごころ着く前に……とか、そういうことですか?」
「そうじゃなくて……いや、それでも間違っちゃないのか? 記憶がないんだ、十歳より前の。最初に覚えてるのは荒野の真っただ中で、だからアン――妹以外に家族がいたかも分からない」
「えっ」
「っ……!?」
目を丸くしたのはルクスだけではなかった。アデルもまた、隻眼を精一杯に見開いている。いつもの無表情が剥がれ落ちたかのようにはっきりとした感情表現だった。
あれ、とエレンは首を傾げる。
「アデルに話したこと、なかったっけ?」
「ない」
即答だった。
旧時代文字もすらすら読める記憶力を持った彼女がそう言うのだから、本当に話してなかったのだろう。
もちろん同行しているからといって過去をすべてさらけ出す必要があるわけではないが、アデルにしていなかった話を初対面の相手にさらっとしてしまったのは、何かがまずかったかもしれない。もちろんエレンに悪気があったわけではなくて、すっかり話した気になっていただけなのだけれど。
どこか居心地の悪さを覚え、エレンは少し冷めてきたお茶のマグを持ってずずっと啜り――「ぐふぉ!?」飲み慣れない風味に、危うくすべてを噴き出しかけた。
「げほ、げほ……せ、洗浄剤!?」
なんとか飲み込んで咳き込むエレンの脇で、アデルも自分の分をひと口飲む。
「旧時代のハーブティーの再現飲料と推測。合成ゆえに多くの成分が異なるが、味覚に対する再現度がかなり高い」
「あ、分かりますか? オリジナルの調合なんです、これ。お兄さんのお口には合わなかったみたいですが……えと、ブラウン・ティーとか調合しますか?」
「大丈夫……うん、大丈夫だ、驚いただけで。慣れたら悪くないぜ、うん」
『これひとつで髪も体も口の中も丸ごと全身殺菌・消毒できる』、が謳い文句らしい愛用の洗浄剤にあまりにも味が似ているが、れっきとしたお茶らしい。別に余裕で飲めますよ、という表情を無理やり作り上げてなんとかもうひと口飲み込んだ。
それでも心配そうなルクスの気を逸らすべく、なんとか適当な話題をひとつでっち上げてすーすーする口を開く。
「それにしても、大した部屋だな。俺、前にも一回パライソに来たことがあって……まあ、そのときはキャラバンと一緒だったから、ロクに出歩きもしなかってけど。でも、ここまで生きてる機械があるとは知らなかったよ」
「ああいえ、生産プラントとか浄化水槽とか、そういう生活に必要なもの以外はそんなに残ってないんですよ。レイヴンも呼んじゃいますし。ただ、わたしは直すのが得意で」
「じゃあまさか、壁だのなんだのの紙も、ええと、ルクスさんが?」
ちょっと見るだけで頭痛を引き起こすような数多の計算式を示すと、ルクスはこともなさげに頷いた。
「趣味と実益を兼ねて、ですかね。わたしのことは呼び捨てでいいですよ。あ、」アデルへ視線をやって、「お姉さんもお気軽に呼んでくださいね?」
「呼称の必要があれば、そうする。現時点では必要ない」
硬質な声音。それに、突き放すような内容。ルクスはびくりと肩を震わせる。
「っ……す、すみません、馴れ馴れしくしちゃって……」
「レイヴンに」
硬い声音のまま、アデルが続ける。ひと口、再現ハーブティーを啜って。
「レイヴンに、連れていかれたのだろう。あなたの姉は」
「は……はい。もう、五年も前の話ですけど」
エレンは、アデルの言わんとするところを察した。
明かせこそしないが、アデルはレイヴンだ。そして、その同族が目の前にいる少女の家族を奪い取った。
別れの意味を、今のアデルは知っている。レヴィでそれを学んだ。
「ええと……?」
困惑したようなルクスに対し、さてどう誤魔化そうかと考えていると、そこに都合よく助け船が現れた、もとい聞こえた。
――ドンドン。
扉のほうから、なにやら鈍い殴打音。
「おおい、お客さん。いるかね」
「あっ、リーダーですね」
くぐもった男の声を聞くなり、ルクスはぱたぱたと玄関に走り寄ってドアを開く。現れたのは、少し前にエレン達と話したあの男だった。
「ああ、お茶の最中にすまんね。ちょっとお客さんに話があってな。――ん」
男はフードを外したアデルの素顔を見て、ぴくりと片眉を動かした。
「話って?」
「ああ、それだよ、それ」
エレンが視線を遮るように割り込むと、リーダーの男はこちらの腰を指さした。正確には、そこに吊られた光子銃を。