硬直を破ったのは、幼さの残る高い声だった。
ぱたぱた、群衆の中から駆け出してきたその姿は、まだ十三、四ほどの少女である。陽の光を編んだようなふわふわとした明るい金の髪を後ろでひとつにまとめ、蜜色の瞳には人懐っこそうな笑みが浮かんでいた。
「ルクス。お客さんに用事か?」
「はいっ! あの、お兄さんとお姉さん。よければなんですけど、わたしの家に泊まりませんかっ?」
親の許可は、と訊きかけたエレンに先手を打つように、
「わたし、一人暮らしなので!」
という注釈が入った。不用意な発言をしかけたことに、エレンは内心反省する。
「だが……ううむ、お客さんを怪しむわけじゃあないけどね。子供のところに大人の男というのは、こう、あまりよくないんじゃあないかね」
男が口を挟む。エレンへの嫌がらせなどではなくて、それは実にまっとうな心配だった。無理に止めてくれと言うわけにもいかず、エレンはむむ、と心の内で低く唸る。しかし今から他の宿泊先を探すとして、日が暮れるまでに間に合うだろうか?
そこに、爆弾が――否、衝撃的な発言が投下された。
「自分がいる。問題ない」
「アデル!?」
その一言は恐らく、いや間違いなく、エレンが少女に危害を加えようとした場合、力づくで止めるという意味だった。
なるほど、女性同士であれば安心だろうという気づかいやら、エレンはそんなことしないなどと証拠のない説得を試みないところやら、アデルにとって相当に流民へと寄り添った発言だったに違いない。あるいは、データベースでこのシチュエーションに合う発言を調べたのかもしれなかった。
しかし問題は、周囲に正しくその意図が伝わらなかったという点で。
男はアデルとエレンを交互に見やる。かと思えば、にやっと嫌ぁな笑みを浮かべ、
「なるほど、いやなるほどなあ。おっかないなあ、兄ちゃん。なら安心かもしれんなあ」
「いや……あの……いや……」
男がいきなり親しげになったことに苦言を呈す気にもなれず、訂正したいがこの肯定的な流れを壊すようなこともしたくない。感情と実利に挟まれて、エレンはほとんどフリーズした。
「お兄さんとお姉さん、そういう……ふ、二人旅ですもんねっ! あの、ウチ、お部屋が二つあるんです! わたしはお邪魔にならないかと……」
家主が邪魔になるも何もないだろう、とエレンは内心でツッコミを入れる。
「質問、あなたが宿泊場所を提供してくれる?」
「はいっ! あ、ごはんは別で調達してもらわなきゃなんですけど……」
「問題ない。要求、このフロートバイクを停止させるスペースも提供してほしい」
「ウチの裏手でいいと思います! それにしても、すっごい乗り物ですねえ」
レヴィでの経験が活きたのか、とんでもないコミュニケーション能力を発揮するアデルがどんどんと交渉を進めてくれ、晴れて宿泊場所が決定した。
最早口を挟む余地はどこにもなく、エレンは感情を殺したまま、ただ少女の案内の通りにバイクをのろのろ進ませるのだった。
†
「ここがわたしの家ですっ。あ、バイクはそこの配管脇に停めてくださいね」
少女に案内されたのは、いくつも並ぶ直方体の内のひと部屋だった。ごてごてとした建物の多いパライソにおいてはやや珍しい、シンプルなコピー・ビルである。
あまり状態のよくない建物だ。通りから見て右半分は、押し潰されたかのようにぐしゃりと崩れ落ちている。
自然な倒壊、とは思えない。なにせ、あのバベルを作った人々が住んでいたという建物だ。ちょっとやそっとの雨風程度ではびくともするはずがないだろう。
そんなエレンの疑問を察したのか、少女が説明をしてくれる。
「もともとは八部屋ある建物だったんですけど。レイヴンが壊しちゃって、今使えるのは二部屋だけなんです」
「――レイヴンが!?」
せっかくならば会話をアデルに任せようという思惑半分、誤解にどう対応したらいいかという困惑半分で黙ったままバイクを停めて円盤状に畳んでいたエレンは、しかしその言葉に強く反応する。
少女は急に大声をあげたエレンにいくらか驚いたものの、すぐに「はい」と頷いた。
「わたしのお姉ちゃんを、連れていっちゃったんです」
なるほど、考えられる話だった。
レイヴンは理由もなく流民を殺したりしないし、その住処を荒らしたりもしない。しかし理由が――つまり、何らかの条件に適合した流民を攫うためならば邪魔な他の人を殺しもするし、逃げ隠れた先の建物なりを破壊もする。
「……そいつは、なんつうか、辛いな」
「え?」
つい分かったような口をきいてしまったエレンは、釈明するように慌てて言葉を続ける。
「あ、いや、俺の妹もさ。レイヴンに連れてかれっちまってて。そのとき、住んでたトコもぐっしゃぐしゃにされちまったんだよ。だからその、ちょっと気持ちが分かるっつーか……」
「……っ!」
少女は、まるで
ぽろぽろ、ぽろぽろ。
涙はとめどなく流れ、少女の着るカーキのジャケットの襟はみるみるうちに濡れていく。
ぎょっとして硬直するエレンに対し、アデルの反応は速やかだった。
「……確認。自分はエレンが何らかの問題行動を働いた際にそれを制止する役割を申し出た。データベースを検索……完了、𠮟責には額を指ではじくのがよい、と……こう?」
いわゆる【でこぴん】の形になったレイヴンの細い指先を、エレンは神妙な面持ちで受け入れた。果たして、兵器に額を弾かれても自分の頭が無事かどうかは分からないが、とにかく初対面かつ年下の女の子を泣かせてしまったのだ。受け入れるしかなかった。
はじきやすいようにと首を俯かせたエレンとアデルの間に、少女が慌てて割り込んできた。
「わ、すっ、すみませんっ! ちがうんです、お兄さんは悪くなくって! あの、ちょっと……いろいろ、思い出しちゃって……」
体格に対して余っている袖で顔をごしごしとぞんざいに拭うと、少女は思い出したかのようにぺこりと一礼した。
「あの、言い忘れてました。わたし、ルクスって言います」
「ああ、俺は――」
「エレンさん、それにアデルさん、ですよね」
きょとんとする二人を映し、蜂蜜の瞳が細められる。
「さっきリーダーに名乗ってたじゃないですか。ここで長話するのもなんですし、続きは中でお話ししましょう。ご飯は無理でも、お茶くらいは出しますから」
ルクスがノブの上部に据えられたパネルに手をかざすと、かちりと硬質な音がした。開錠されたのだろう。家主と二人を迎え入れるべく、ドアは自動で手前へと開かれる。
エレンは既視感と、それから強い眩暈を覚えた。
「大したおもてなしもできませんが、どうぞ!」
その先に続く部屋の中には、たっぷりと数式が敷き詰められていたのだった。