「……語彙を構築……完了。これは凄い、な」
どこか呆然とした様子で、アデルがはるか上を見上げた。
「すげえよなあ。塔っつーか、山みたいな感じだよなあ、迫力が」
うんうん、とエレンが頷いた。
目の前には、黒一色をした強固な壁が広がっている。平坦な壁に見えるそれは、しかし実際のところ緩やかな弧を
バベルの外壁だ。
霞んで消えるその上部は、はるか天まで繋がっているのだという。
「……着いたな、とうとう」
ここに来るのは二度目だが、それでも威容のごとき重圧を感じずにはいられない。かつて人々は山に神格を見出していたと聞くが、この塔にもまた、人知を超えた何かが宿っているような気さえする。
感慨深いエレンに対し、しかしアデルはかぶりを振った。
「否定。自分たちの目的地は天であり、ここは通過点でしかない」
「そりゃそうか」
エレンは肩をすくめながら、外周に添うようにして歩き出す。あまりに巨大なこの塔は、何百メートルかおきに出入り口が備えられているのだった。
数分歩いて辿り着いた頑丈かつ身の丈の三倍もの高さがある黒いスライドドアには、なぜだか持ち手となるでっぱりもへこみもついていない。エレンは無理やり爪を立て、力づくでそれを左右に開く。
「ほらアデル、先に入ってくれ」
「了解」
放っておくと勝手に閉まるそれを抑えてアデルを通し、エレンは後から塔の中へと足を踏み入れた。
そこにあるのは、まるで外壁の黒をそのまま詰め込んだような暗闇である。
エレンは手探りで小型の懐中電灯を取り出し、光子銃にも使える汎用バッテリーへと繋いでスイッチをつけた。
ぱち、という音と共に室内がぼんやりと照らされる。左右、それから奥へと通路が続いていた。
「やっぱ、メインの光源を置いてきちまったのが痛いなあ……」
【β】に襲われた場所へと置いてきてしまった愛用のランタンを思い出し、エレンは悲しみのような寂しさのような感覚に襲われる。あれは、それに一緒に置いてきた毛布と敷布も、キャラバンに付いて行っていたときからの長い付き合いのある品だったのだ。しかし命には代えられず、取りに戻るわけにもいかない。
「問題ない。自分は暗所でも視界が効く。分析中……推測、恐らく昇降機はこっち」
ここに訪れるのは初めてであるはずのアデルは、しかし迷いのない足取りで奥へと続く通路へと足を踏み入れる。
頼りない懐中電灯の照らす数メートル部分しか視界の効かない流民たるエレンは、慌てて闇へと消えかけたその背中を追った。こんな真っ暗闇で離ればなれになったら、など考えたくもない。
闇というのは、否応なしに恐怖を助長させるものだ。遅れたエレンを待って、アデルがくるりと振り向いた。その赤い瞳が光っているように見えるのは、懐中電灯による反射光だろうか。揺るがぬ星のような光だった。
アデルの先導するままに、二人はパイプの突き出た通路を曲がり、いくつか部屋らしきものの横を通り抜け、階段を上り、そうして大広間のような場所へ辿り着いた。弱い光に、ぼんやりと古びた椅子が並んでいるのが浮かび上がる。破損はあるものの、みな整然と同じ方向を向いていた。地面に固定されているのだ。
昔、エレンも一度来たことのある部屋だった。全体が円の形となっているため、壁が緩やかに歪曲していた。
「推測、ここが軌道エレベーターの本体」
「ここが? 待合室とかじゃなくてか?」
エレンの知る昇降機……エレベーターは、大きくとも人間が十人が入れる程度の広さしかないし、それに箱型だ。ここは広すぎるし丸すぎる。百人以上が収まるだろう。
しかし、返ってきたのは頷きだった。
「肯定。この部屋全体がケーブルによって上昇し、RaSSへと辿り着けるようになっている。しかし、操作パネルが見当たらない」
「操作……ああ、あのよく分からん文字の置物か? こっちだ、こっち」
前に探索したときのことを思い出しながら、今度はエレンがアデルを先導した。
なにせ、何年も前の記憶だ。いくらかの不安はあったものの、幸い目指すものが懐中電灯の白っぽい灯りでぼんやりと浮かび上がるのが見えて、エレンはこっそりと嘆息した。
椅子の向きから斜め後方に位置するそれは、直角の壁に仕切られた小部屋がある。出入り口となる扉には、やはりなぜか持ち手がなかった。
力づくで開いた奥には、大きく頑丈そうなつくりの椅子と、何やら文字の羅列された机のようなものがある。
「確認……検索、推測……確認完了。軌道エレベーターの操作パネルで相違ない。案内に感謝する」
「いや、たまたま覚えてただけだ。それより、本当に動かせるのか?」
「恐らくは。接続を試行するゆえ、周囲の警戒を要請する」
「おうよ。つっても、誰も来ないと思うけどな?」
アデルはその細い体躯に見合わぬ椅子にちょこんと座り、両手を文字の机――操作パネルにかざした。そのまま、まるでキーボードでも打鍵するかのように、カタカタと指を動かす。
『不明なエラー。不明なエラー。アブソーブモードでのみ起動可能』
「うおっ!?」
部屋の隅から安っぽい合成音声が響き、エレンはびくりと顔を跳ね上げる。懐中電灯の光を向けてみると、小さな穴があいている箇所がある。どうやらスピーカーが埋め込まれているらしい。
すっ、とアデルがエレンへと首を巡らせた。
「……エレン。食料を貰えるか」
「え?」
どうしてだ、と訊こうとした口をつぐむ。エレンはこの操作パネルの動かし方がまったく分からないが、アデルには分かっている。それをこのタイミングで説明してもらうこともないだろう。
とにかく、荷物から一番手軽に食べられるゼリー飲料のパウチをいくつか渡すと、アデルはすぐに封を開け、とんでもなく甘くてハイカロリーなその中身を一気に飲み干してしまった。続けてふたつ目、みっつ目も。
ぷはぁっ、と息を吐きながら、アデルはまた操作パネルをカタカタと弄り出す。
『アブソーブモードへの切り替え許可を確認。バッテリーを設置してください』
それを聞き、片手をなにやらパネルのギザギザとしたマークへと置くアデル。キュィン、と高い音が響く。
『起動準備完了。【Bifrost】のメインシステムを立ち上げます』
ぱっ、と。
唐突に、世界が白い光に照らしあげられた。
「うわッ!?」
エレンはとっさに懐中電灯を放り出しながら目を瞑り、その上に両手を重ねた。目が潰れる、と思ったのだ。暗闇に慣れた目は、いきなり飽和した光を受け止めきることができない。じわりと涙が滲みすらした。
たっぷり数分そうしてようやく、いくらか目が慣れてきた。恐る恐る、エレンは両の瞼を開く。
「うぉ……な、なんだこれ……!?」
目の前にあるのは、もちろん例の小部屋だ。しかし、つい先ほどと比べてあまりにも雰囲気が違う。
屋根全体が白く輝き、室内はまるで晴天の下かのように明るい。操作パネルにはホロキーボードが浮かび上がり、正面の壁には無数の実在ディスプレイやらホロディスプレイやらがぺかぺかと瞬いている。その中心には、何やら筒状の立体モデルが投影されていた。
「説明……この施設全体がスリープモードになっていたゆえ、システムを起動した」
「システムが生きてるってことは、じゃあ、本当にエレベーターも動くんだな!?」