ピイィィ、と。
エレンを叩き起こしたのは、いつだったかの不快な高音――アデルの指に内蔵されているのだという警笛の鳴る音だった。
おいおい、と最初に思う。これで起こすのはやめてくれと、確かにそう頼んだはずである。それに目を閉じたままでも暗さからして、まだまだ起きる時間にはほど遠い。
まったく、これではタチの悪い悪戯だ――悪戯?
何をバカな。アデルが――レイヴンの彼女が面白半分にエレンを起こすことなどあり得ないに決まっている。
ばっ、と。
エレンは立ち上がりざまに腰の銃を抜き、構えながら周囲を確認する。
やはり、暗い時間だ。東の空には微かな薄藍が滲んでるが、まだ夜明けには遠い。辺りにいるのは、エレンの起床を確認して笛の音を止めたアデルだけだ。エレンは多少警戒を緩める。
「どうした、変異生物でもいたか?」
「否定。通信が入った」
「通信? どうやって……いや、誰から?」
通信端末なんて珍しいもの持っているのか、なんて考えてから、そういえばアデルはレイヴンだったなと思い直す。警笛が付いているくらいだ、通信機能を持っていてもおかしくはない。
「回答。レイヴンはレイヴン同士に限定して無線によるやり取りが可能である」
「つまり、レイヴンから?」
「肯定。しかし自分の機能が故障しているためか、内容の解析ができなかった。ただ、送信元は知っている個体……自分を母船より追放した司令個体で間違いない。通信によりこちらの座標もバレている」
「……そいつは穏やかな話じゃなさそうだな」
アデルは同じレイヴンの仲間に見放され、ひとり廃墟をさまようことになったと聞いている。その見放したほうのレイヴンがアデルを見つけてどんな反応を取るか、予測はつかないものの、良い展開にはならないだろうというのは確かだ。
とにかく、エレンはまず円盤状にして休ませていたフロートバイクを起動した。
「追いつかれないよう、今のうちに移動しておくか……? フロートバイクなら逃げきれるんじゃねえかな、早いし」
「その必要はありませんよ。もう追いつきましたから」
「っ!」
声が。
年若い女性の、しかしどこか平坦な響きをした声が、頭上よりもたらされた。
見上げる。そこにいるのは、赤い光をたたえ機械の翼を広げる少女の姿である。
「――【β《ベータ》】」
返事をしたのはアデルだった。
「自分の通信機能は破損しており、正確な通信が不可能。ゆえに口頭での説明を要求――いかなる要件かと質問」
「あらあら、【α《アルファ》】の癖に『当機』ではなく『自分』ですか。随分と心境の変化があったようで」
アデルの質問に答えることなく、βと呼ばれたレイヴンはゆっくり地面に降りてきた。エレンは銃を強く握る。
黒髪のレイヴンであった。闇夜を吸いこんだかのような髪は、アデルのそれよりも短い、肩くらいの位置で切りそろえられている。背格好や顔立ちは、どこかアデルに似ているような感じがする。肌の上には赤い神の光が輝いていて、それはつまり、エーテルの補充がされた万全の状態であるということを示している。
肩に書かれた文字は、【β-delta】。
「【α】。何のためにこんな場所へ? あなたを追放したのは第二都市域のはずですが」
「【β】。まだこちらの質問に答えていない」
「ですから、気になって来たのですよ。再度質問します、なぜこんな場所へ? それに流民まで連れて」
ぴりぴりと張り詰めた空気だった。割って入ったら、一瞬で殺されてしまいそうな。
けれども怯えているわけにもいかない。エーテルの差がある以上、戦えば敗北は免れないだろう。普通、レイヴンにとって、人命とは虫の命にも等しい。手加減してくれるとは思えなかった。
エレンはフロートバイクまでの距離と、黒髪のレイヴンとの距離を測る。どうにか逃げおおせられないか、と。
「……回答。この先に軌道エレベーターがあるとの情報を得、RaSSへと帰還するためにそこへと向かっている。エレンはその目的を達する上での協力関係」
「やめなさい。【α】、あなたはRaSSに戻れません」
はっきりと。
黒髪のレイヴンが、アデルを見据えて言い放った。
「正しく言えば、戻ってはならないのです。言ったでしょう、あなたグラナド様より『不良品』の烙印を押されたのだと。戻れば処分されるだけですよ」
かっと、エレンの頭が燃えるように熱くなる。
なんだよ。アデルは
そういうことを喚きそうになるのをぐっと堪える。今、相手の神経を逆なでするわけにはいかない。
「否定。自分は正式にその通告を受け取っていない。【β】より聞いただけだ」
「不合理な屁理屈を……そんな思考形成ではなかったでしょうに。まるで人間のような……ああ、そこの流民が原因ですか?」
つい、と。紫をしたレイヴンの瞳が、エレンのほうへと向けられた。エレンの背筋が凍る。それほどまでに冷たい輝きを宿した目だった。
それと同時に、黒髪のレイヴンの片腕、その輪郭が溶けるようにして崩れる。かと思えば、それは鋭いブレードへ変化していた。反応する暇さえなかった。それが、身を強張らせたエレンへと真っ直ぐに向けられる。
「ならば、その流民を殺処分すればあなたも目が覚めるでしょうか――」
「コマンド:【
声と共にアデルが消え――気が付けば、黒髪のレイヴンの肩を背後から掴んでいた。
「警告。彼に手を出すことは許容できない」
低い声。
「ああ……あなたのそれは代替エネルギーでも作動するのでしたね」
一瞬後には【加速】で頭が消し飛んでもおかしくない状況にありながら、黒髪のレイヴンは余裕を崩さない。
「流民との行動など、【α】。あなたにとって害にしかならないでしょう。その片目、大方ナノマシンの結合が崩壊して融解したのではないですか?」
眼帯を示され、アデルは無言のまま目を細めた。黒髪のレイヴンは「やっぱり」と口の片端を吊り上げる。
「その故障、発生はこの流民と接触してからのことでしょう。それまで大きなエラーはなかったにもかかわらず、急に壊れた。……違いますか?」
「……だから何」
「何事にも原因があるのです、【α】。今までにない行動をして今までにない結果があったのなら、そこには因果関係があると考えるのが自然だ。せっかく余剰エーテルがあるのなら、簡易メンテナンスくらいしたらどうですか? 得意分野でしょう、そういうのは」
ブレードになっていた腕が人のかたちに戻り、指がフロートバイクの赤い光を示した。その瞬間だけ、視線がエレンとアデルから外れた。
今しかない、と思った。
――パァンッ!
激しい炸裂音が、エレンの足元より響く。
さすがは兵器と言うべきか、黒髪のレイヴンの行動は早かった。
アデルの掴む手を振り解くようにして無機的な双翼が広がり、しかし一切空気を掻くことすらなく体が重力のくびきを外れ、瞬時に空高くへと距離を取る。同時に片腕がまた展開し、長方形のシールドとなる。
音の発生源は、エレンの仕込みブーツの足先に込められた特殊な火薬である。攻撃力は一切ない、あくまでただの虚仮おどしだが、中々よく響くので、初めて聞く者が相手ならば――特に戦闘を得意とする者ならば、確実に警戒を促せる。
しかし、アデルがこの音を聞くのは二度目だ。だから回避も防御もしない。
「逃げるぞ!」
エレンは叫び、フロートバイクにまたがる。アデルは素早く後ろに飛び乗った。
バイクのメーターはまだエンジンが完全な暖気状態になっていないことを訴えていたが、構っている余裕はない。幸い、エレンがアクセルをかけると、まるであの【加速】のように勢いよく発進してくれた。
「――後悔しますよ、【α】」
振り切る直前、黒髪のレイヴンがそう言うのを聞いた。
まだ暗い荒野の上、赤い光が真っ直ぐに進んでいく。
ライトをつけてはいるし、浮遊するバイクは多少の段差程度全く関係ないとはいえ、あの看板のような障害物に正面衝突すれば大破は免れない。エレンは必死に前を見ながら、迫ってきた大岩を回避する。
「アイツ、追いかけてきてるか!?」
「否定――そもそもレイヴンは長距離・高速の移動が不得手。同じエーテル動力である以上、移動用たるこのフロートバイクに追いつくことはできない。【β】も理解している、ゆえに追いかけては来ないと推測。そもそもレイヴンは基本、母船を中心とした半径十キロの活動範囲から逸脱しない」
ほっ、とエレンは胸を撫で下ろし、全開だったアクセルを少しばかり緩める。
「今の、レイヴン……なんだよな? やけに流暢に喋ってたし、なんか、アデルに似てたけど」
「肯定。かの機体……訂正。彼女は自分と同じ【deltaシリーズ】に属する特殊なレイヴン」
「デルタ? アデルって、ただのレイヴンじゃなかったのか?」
しばしの沈黙があった。
フロートバイクの独特な、風の音にも似たエンジン音だけが無人の荒野に響く。
「……肯定。自分……【α-delta】、並びに先の【β-delta】、そして【γ-delta】は、他の汎用個体と比べ性能、エーテル許容量などが優れるかつ、それぞれ特殊機能を有した特別なレイヴンにあたる」