幸い、アデルにさらなる故障の気配はない。もう片目まで溶けてしまったり、腕がもげたり、そういうことは起こらなかった。
だからといって、のんびりとくつろげるはずもなく。
本当はその明くる朝にも出発してしまおうとしたのだが、疲労と負傷の蓄積したエレンが文字通りぶっ倒れたことと、その直後ひどい豪雨に見舞われたことで、仕方なくしばしの休息を挟むこととなったのだった。
その分の遅れも取り戻さないといけない、とエレンは気負うようにしてぐっと拳を握る。
「……確認。あなたは行かないのだな」
つい、と。
自分より頭ひとつ以上高い位置にあるゴドリックの瞳に、アデルが半分しかない視線を合わせる。
鮮烈な赤の瞳は片方が欠けても尚、この灰色の世界においてまるで輝くようだった。
「ええ。……アタシはみんなを弔うために戻ってきたんだもの。せめて墓守くらいはしないと、ネ」
「天の技術をもってしても、魂の存在は確認できていない。そもそも遺体すら残っていない以上、その行為には何の意味もないはずだと進言」
「ちょ、⁉︎」
エレンは慌ててアデルを諌めようとする……が、半分ほど伸ばしたところで腕が止まった。
合理主義たるアデルのことだ。そりゃあ、魂や死後の世界についても信じていないに違いない。というか、本当に信じているのかと問われたとして、エレン自身迷いなく頷くことはできないだろう。
けれど。
それでも彼女は、同胞たる災竜を弔うことを選んだのだ。エレンから光子銃を借りてまで、他ならぬ己の意思で。
だからこの言葉は、本音であっても本心ではなくて。
「ええ……うん、分かってるわ。それでもアタシはここに残るの」
ゴドリックは一切の怒りなく、穏やかに二度首肯した。
「理解……理解、肯定。それがあなたの使命なのだな」
「あら、違うわよ」
今度は首を横に振って、
「別に誰に命令されてるでもないしネ。だから、これはアタシの意思よ」
そうか、とアデルは頷いた。
会話が途切れた。
出発をするのなら、なるべく早い時間のほうがいい。この場にいる三人ともが、それをよく分かっていた。
ざあ、と風が通り抜ける音。
それが止んだその瞬間に、エレンが口を開いた。
「よし。それじゃそろそろ――」
「あ、待って。いっこ忘れてたわ」
「……おっさん、空気読んでくれよ」
フロートバイクへと向けようとした足を途中で止めて、つんのめるような体勢になるエレン。
「あはは、ごめんなさいね。アデルちゃんに渡し忘れてたものがあって」
言いながら取り出したのは、何やら黒い布……否、革製の装身具のようだった。左右には結び紐が伸びている。
「はい、プレゼント……というか、バカな真似に付き合わせちゃったお詫びかしら」
「……質問。これは?」
「眼帯よ。ただボロ切れを付けてるんじゃ、オシャレのおの字もないでしょう。乙女たるものカワイくなくっちゃ!」
む、とアデルが目を細める。
「否定。自分から雌性体らしき特徴を持つのは見た目だけであり、そもそもレイヴンに嗜好は存在しない」
「あら。いいのかしら、そんなこと言って」
ウフフ、と怪しげな笑みを浮かべるゴドリック。
「……? そんなことも何も、先述した内容は事実であり――」
「この眼帯ね。アタシが、夜なべして、作ったの」
ぴたり。
アデルの反論が止まる。
「わざわざ残ってる皮を見つけて、染色して、加工して……手芸なんて久々だから、縫ってる途中で怪我もしちゃったわ」
ほら、見せびらかす太い指先は、なるほど確かに細い消毒布が巻かれていた。
「でも、もちろんアタシは眼帯なんていらないし? アデルちゃんが受け取ってくれなかったら、ただの使えないゴミになっちゃうのよネ。アタシの苦労の結晶が、ゴミに……」
「理解、制止、進言。労力をかけたという事実は汲むゆえ、悲哀の表現はやめてほしい。……その、眼帯は貰う、から」
よよよ、とわざとらしい泣きマネをしていたゴドリックは、その返事を聞くなり満面の――気の弱い者が見たら卒倒しそうな迫力のある――笑みを浮かべ、ぐいぐいと眼帯を押し付けるように差し出す。
「おお……」
横から二人のやりとりを見ていたエレンは、つい感嘆の声など漏らしてしまう。
アデルと意見が対立したとき、言いくるめるのは中々に難しい。というのも、不合理だのなんだの言うだけあって、彼女の論には――それが人間の価値観に沿うものかどうかは別として――しっかりと一本筋が通っているのである。
そこでゴドリックはアデルの得意とする理論的な言い合いを避け、下手くそな泣きマネで説得せしめた。そう、エレンから見れば下手くそな。しかしアデルは人の持つ感情に対しての理解度が低い傾向にあるため、それをまっとうに受け取ってしまったらしい。
「なるほど、俺も今度から泣きマネで……いや、男のメンツ的にちょっとなぁ……」
詮ないことをぶつくさ呟いているうちに、アデルが眼帯の装着を完了する。
手を添えたり瞬きしたり、一通り具合を確かめている。……かと思えば、エレンの方に首を巡らせて。
「要求……どう? 意見を願う」
「ど――どうって、そりゃ、」
いいんじゃねえの、と言いかけたエレンの口が寸前で止まる。
思い出すのは――そう、いつかのアンの言葉である。曰く、『おにーちゃんって全然女のコ心分かってないよねー』……確か、髪を切り揃えたのに気が付かなかったときのことだったか。
とにかく、ゴドリック謹製の眼帯を付けたアデルのことをまじまじと見やる。
そうしてみて気が付いたのだが、ただの黒に見えたその皮は、しかし艶やかで落ち着いた光沢を宿していて、全体的に色素の薄いアデルの雰囲気に添いつつもぐっと引き締めている。蜥蜴皮特有のウロコ模様も――エレンの思考ではこの程度の表現が限界なのだが――なんとなく……こう、オシャレだ。
あの灰色をした布を巻いていたのは、負傷を保護して隠すためのだった。もちろん重要なものではあるけれど、見るたびにどうしてもアデルの負傷を想起してしまう。
しかし――先の通り、この眼帯はオシャレなのだ。あくまでファッションの一環です、という見た目をしており、そう、何と言うべきか、
「……か、可愛いんじゃ、ねえか」
つっかえつっかえで言った途端、横のゴドリックがニヤっと下卑た笑みを浮かべたのが横目に見えた。んだよおっさん気持ち悪りいなはっ倒すぞ、という言葉をぐっと吞み込んで、エレンはアデルの反応を待つ。
「…………?」
アデルはこてん、と首を傾げた。
「説明……自分は流民の常識を理解していないため、この眼帯を装着するのが不自然ではないかを確認したのだが……」
ぐっ。
エレンの喉の奥から詰まるような音が洩れる。
「あ……ああ、大丈夫じゃねえかな……うん、自然自然……」
「もうエレンくんってば、もっとストレートに攻めないと! ほらもう一回、カワイイ! 似合ってる! 美人さん!」
「いでででででで!?」
ばんばんと治りたての肩を叩かれて、エレンはたまらず悲鳴を上げる。
「マジで勘弁してくれ! や――っと療養が終わったってのに、いま怪我したら冗談じゃ済まねえぞ!?」
「うふ、ごめんなすって。エレンくんの細ぉい骨格を堪能できるのも最後かと思ったら、つい……」
「……ああ、うん、そっか。本当にやめてください」
なぜだろう。全身にぞわりと鳥肌が立つ感触があった。
そうこうしている内に、薄暗く澄んだ早朝の空気はすっかりなくなってしまって、朝日がまばゆく世界を照らし始めていた。
エレンもアデルも急いでいたし、行動できる時間は限られていた。そして今度こそ、やり残したことは何もなかった。
「そろそろ俺たちは行くよ。おっさん……ゴドリックさん、元気でな」
「ええ。エレンくんもアデルちゃんも、元気で。
「問題ない。すべて自分が討伐せしめるゆえ」
なら安心ね、とゴドリックが笑う。
エレンは立ち上げておいたフロートバイクの運転席にまたがると、教わった通りにハンドルを握った。この数日の休息によって、操縦方法は完璧に――とまではいかないかもしれないが、まあ大丈夫だろうというくらいまで理解している。
すぐ後ろ、アデルがひょいと飛び乗る気配。荷物は側面に結わえ付けてある。普通のバイクとは違いバランスをとる必要がないがための、実に大雑把な搭載方法である。
ゆっくりと、エレンはハンドルを捻る。低い駆動音と共に、フロートバイクが進みだす。
「――さよなら」
ぽつり、アデルが言った。
それ以上、三人が別れの言葉を重ねることはなかった。
バイクが加速する。天の技術をもって作られたというそれは凄まじい速度でレヴィの門を抜け、荒野を突き進んでいく。
自分が運転をしていてよかった、とエレンは思った。これでは振り向きたくとも振り向けない。慣れないバイクの操縦は忙しく、寂しさに浸る余地もない。ないはずなのに。
ふと。
気が付く。
――ああ、誰も「また」とは言わなかったな。
背中に、アデルの熱を感じていた。