「はあ……人間が空に建物を浮かべてるのか? それはそれで、ちょっと想像つかないな」
そんなことを話していると、さすがに災竜の葬式に参列するのは嫌だと離れてた位置にいたシャリーが、「おーい」と声をかけてきた。
「まさか一晩中、燃えるのを見てるってワケじゃないでしょう? 準備を手伝ったんだから、ちょっとこっちにも付き合ってくれないかしら」
「質問。付き合う、とは?」
「一人じゃ行けないくらい怖いトコへの付き添いってだけよ」
うん? とエレンはアデルと顔を見合わせる。災竜の縄張りに他の変異生物が近付くことはなく、皮肉にもこの近辺はいま、世界で最も安全な場所である。
そういう思考を察したのか、
「そう遠いトコじゃないわ、すぐそこよ」
とシャリーが言いながら歩き出し――すぐに止まった。
「ここ、この家」
こんこんと叩いたのは、流民が住んでいたのだろう合金板を組み合わせた小屋。
災竜が最後に暴れたのに巻き込まれたのだろう、壁がいくらかひしゃげている。が、まだ小屋としての体裁を保っている。
「すぐそこどころか目の前じゃんかよ。そんなただの小屋、何が怖いんだ? 布を貰いに他の小屋にも入ったじゃねえか」
「ここね、アタシの実家なワケ」
ああなるほど、とエレンは納得した。
「オッケー、分かった。えっと、後ろにいればいいか?」
「それでお願い。ごめんなさいね、一人じゃちょっと心細くて」
エレンとアデルがすぐ側まで寄ると、シャリーは大きく息を吸い、吐いた。
手を扉の取っ手に掛ける。ギィ、と軋むような音がする。シャリーが片手に持つランタンが、開いた隙間から室内を照らした。
他と変わらない部屋だった。――少なくとも、エレンにとっては。しかし、シャリーにはそうではないのだろう。
真ん中には無骨な机が据えられ、隅には寝床らしき敷物が二枚あって、生活用品の揃った簡易的な棚がある。それだけの部屋。
机の上には、何か四角いものが置かれていた。
「……まさか」
シャリーはぼそりと呟くと、のろのろそれに歩み寄る。エレンもそれに続き、アデルは小屋の前で待機していた。
四角いものは、
開くと、現れたのは古びた紙束で。
「ウソ……ヤダ、なんでこんな……」
それが何かは、文字の読めないエレンにも察せられた。シャリーの父親がばらばらにしてしまったのだという、彼の一番大切な本。恐らくそれを一ページずつ拾い集め、新しく作った表紙へと綴じたもの。
パラパラめくると、本の隙間から一枚の紙切れがはらりと落ちた。シャリーが広い、読み上げる。
「『私とシャリーの大切なお姫さま、ゴドリックへ。すまなかった。おかえり。ランガン』」
「……ランガン、ってのは」
「アタシのパパの名前。シャリーは……その、ホントはアタシのちっちゃいときに死んじゃった、ママの名前なの。パパを捨てたアタシが、パパから貰った名前なんて使えないって思って……なのに、パパ……こんな、皮なんて全部食料と引き換えてたのに……」
とん、とエレンの背をつつく感触があった。アデルだ。振り向くと、そっと小屋の外を示す。
頷き、エレンはアデルを追って外に出た。
ほどなくして、液体の注がれる音がした。ウイスキーを父親と呑み交わし始めたのだろう、とエレンは想像する。
「……シャリー……訂正、ゴドリックなるあの流民は、求めていたものを得たのだろうか」
「そうだな……分からないけど、もう大丈夫じゃねえかな」
「なぜ?」
「生きて帰って来たから、あの人はあれを見つけられて……多分だけどさ、仲直りできたんだ。だったら多分、これから死のうとは思わないんじゃって……俺の思い込みでしかないけどさ」
「……自分も、そうだといいと思う」
え、とエレンは多少の驚きを覚えた。
それが表情に出たのだろうか、アデルが言葉を続ける。
「説明。道徳と倫理。その意味が……少し、理解できた。なくなるのは、それが誰にも知られないのは、悲しいことだ。……エレン、自分はあなたに謝罪しなければならない」
「な、何を?」
「回答、今朝のこと。自分はあなたの価値観に沿わない提案をした上に、不必要な威嚇をした」
「いやいや……!」
エレンは首を横に振る。ぶんぶんと、勢いよく。
「謝るのは俺の方だろ! 俺こそ、アデルのこと考えないで勝手なことを……悪かった、本当に」
「否定。自分はいくらか、考えが足りなかった、だから……語彙を検索……完了、ごめんなさい」
言葉が、思いつかなかった。アデルに掛けるべき言葉が。
代わりに浮かんだのは、ひとつの疑念。
――本当に、彼女を天へと……災竜を破棄し、アデルを破棄し、流民を攫い続ける、すなわち道徳も倫理も感ぜられない場所へと連れ戻すのは、正しいことなのだろうか?
彼女自身が望むなら、いっそ――。
そう思った瞬間だった。
「……ぅ、ぁ……ああ……あ? ア、アアアアッ!?」
「あ、アデル!?」
穏やかに話していたはずのアデルが、急に片目を抑えて苦しみ始める。
「どうした!? やっぱり怪我してたのか!?」
「否定――エラー、不明なエラー……ただちに整備者および責任者グラナドへの連絡を! 不明かつ緊急のエラーを観測! ただちに整備者および責任者グラナドへの連絡を!」
「せ、整備者っつったって……!」
あの老人さえ理解できなかったレイヴンを直せるのは、恐らく旧時代の技術を持つ者――天人だけのはずだろう。
ああ、そうだ。アデルは故障を抱えているという話だった。しかしまさか、こんな急に。
どうしたらいいか分からず、エレンはアデルの背中をさする。「どうしたの!?」とシャリーが飛び出てきたが、返事をする余裕さえなかった。
「ぁ、ァァアアアアアアアアッ!? あぐッ……燃え、る……」
「燃える? 暑いのか!? 待ってろ、冷却材が荷物に……」
「ッ、ぅう……ァ……」
アデルが呻いた瞬間だった。
どろり、と、ゲル状のものが零れ落ちる。彼女が左目を抑える、その指の隙間から。
「う、ウソだろ!?」
その一部始終を見たエレンの声は、最早悲鳴に近かった。
「アデル……っ、目が……!」
まるであの災竜の翼のように溶けたそれは、鮮烈な赤を宿していたはずの、アデルの眼球であった。エレンが初めてはっきりと認識した、アデルの故障しているその証拠。
幸い……なのだろうか。とにかく、アデルのエラーはそこで収まったようだった。しかしやはり、左の眼窩はからっぽになって、濃い影だけがそこを覆っている。
最初に口を開いたのは、そのアデルだった。目だったどろどろの液体を振り払いながら、
「……進言。視野及び立体視に多少の問題はあるが、心配は不要」
少し前の会話からはかけ離れた、淡々とした口調。
「不要なわけあるかよ! 目が、と……溶けちまったんだぞ……!?」
「否定……肯定。目の機能喪失は過去にも損傷によって経験があるが、天で修理され完全に回復した。今回も、天に戻れば修理可能だろう、と推測。……早急に戻らなければ、故障個所は増えるだろうが」
それは、つまり。
エレンはアデルから、抗いがたい現実から目を逸らした。
遠く、沈みかけた夕焼けが、ひときわ強い輝きを放った。それはまるで道のようにして、遥か地平より真っ直ぐな光を投げかけてくる。その夕陽を遮るように、細く長いシルエットがあった。それは、エレンとアデルの目指す天への道、バベルの影だった。
夕陽は、光は、前だけを照らしている。
つまり、進むしかないのだった。エレンの内の正しさなんて関係なく、アデルの存在を大切に思うのであれば、否が応でも。
どの道、アンを取り戻すのに、アデルの助力は不可欠だろう。
進むしか、ないのだ。それも、なるべく早く。
ただ茫然と、エレンは暮れゆく光を眺め続けていた。
†
地平を這うような朝焼けが、濡れた地面を照らしていた。
「アタシはここに残るわ」
それが、シャリー……否、ゴドリックの答えだった。
そうだろうな、とは思っていたが、エレンはもう一度だけ質問を重ねる。
「いいのか? 俺らがバイクを貰っちまったら、他の集落を目指すにも一苦労だぜ」
「いいのよ。一応、アルカ? っていうのは徒歩圏内なんでしょ。いざ困ったらそこを目指すわ。といっても、まず大丈夫でしょうけど」
言いながら、ゴドリックは生産プラントから回収したてほやほやのエナジー・バーを示す。
「でも、あんな燃料だけでこれからずっとってのはキツくないか?」
「平気よ。っていうか、あれは非常食。レミアさん……ああ、食用植物の生産をしてたヒトのところに、種も栽培剤もひと山残ってたのよね。むしろ一人じゃ一生かかっても食べきれないんだけど、もう何泊かしてかない?」
エレンは首を横に振る。
「いや、やっぱり今日行くよ。天気もいいし、肩の調子も戻ったし……」
言いよどむエレンへと、ゴドリックが寂しそうに笑いかける。
「アデルちゃん、心配だものね。パライソはヘンな機械がゴロゴロ転がってるんだし、レイヴンだって直せるかもしれないわ」
「まあ……うん、そういうトコだな」
真に目指す先はパライソ……流民の集落ではなくて、その近くにそびえる巨大な塔――アデル曰く【軌道エレベーター】なる装置らしい――たるバベル、ひいてはそれを上った先にある天なのだが、アデルの治療が目的の半分であるのは確かなので、エレンは曖昧に頷いた。
正直に話したとして、頭がおかしいと思われる……ならまだしも、この人の良い男はきっとひどく心配することだろう。なにせ一般的な流民にとって、天は現実とおとぎ話の境にあるような遠い場所だ。
たくさんの傷を抱え、それでも立ち続けることを選んだ彼に、これ以上の重しを与えたくはなかった。
そんなことを考えてから、ふと、ひとつ忠告を忘れていたのに思い当たる。
「……あ、もしもアルカに行ったとして、くれぐれも俺らの名前は出すなよ。殺されるかもだから」
物騒な物言いに、ゴドリックはぽかんと口を開く。
「は? ……まあ、ええ、そうするけど。何があった、とか訊いても?」
「回答。愚者が己の愚かさを認めず、あまつさえエレンへと責を押し付けた。訪問は非推奨」
平坦な声が割り込む。しかしエレンには、抑揚が薄い声音の奥に込められた不機嫌さを確かに感じ取った。
「アデル。調子はもう良いのか?」
「……? 肯定、問題ない。大気の分析をしていた。これから十日、行動に支障をきたす規模の悪天候が発生する確率は極めて低い」
小さく首を傾げるアデル。色素の薄い肌の上、さらりと長い白髪が溢れる。
しかし、そこに添えられるべきあの鮮血のように赤い瞳のうちの片方は、灰色っぽい布が包み隠してきた。
窓覆いの布を裂き、洗浄剤と煮沸でひととおり消毒しただけの簡易眼帯だ。
がらんどうになってしまった眼窩をそのまま晒しておくのは、たとえレイヴンだとしても健康に障るだろう。見た目としても痛々しい。
事実、そのアデルに似合わぬ薄汚れた眼帯を見るたびに、エレンの胸を薄暗いものがよぎるのだった。
災竜との戦いから……アデルが片目を喪失したあの日から、数日の時が経っている。