「…………ウソ、だろ」
ぽつり。
唐突に静寂を取り戻したレヴィの中心で、エレンが呆けた声をあげた。
「ウソだろ……なんで、なんでアデルが……おい、吐け! 吐けよ、このッ!」
エレンは災竜の顎を掴み、無理やりこじ開けようとする。しかしいきなり羽交い絞めにされ、ずるずる後方へと引き摺られた。シャリーだった。
「なにすんだ、おっさんッ!」
「恨み妬みなら後でいくらでも聞くわよ! でも、災竜がまだ生きてるの! エレンくんまで死ぬ気!?」
『まで』とはどういう意味だとエレンが噛み付きかけたところで、
『ギュオオォォオオオッ!』
シャリーの言葉の通り、まだ死ぬ気はないらしい災竜が、またもや凄まじい咆哮を放った。
鉤爪の生えた前足が地面を叩く。既に砕けていたコンクリートの罅がさらに広がり、エレンとシャリーの足元にまで達した。たまらず、二人ともが盛大に転倒する。
待ってましたと言わんばかりに、災竜がぐっと首を伸ばした。アデルを呑み込んだばかりの暗い穴が、残された二人をも吸いこもうとする。
しかし――寸前で、災竜の動きが止まった。
『グ……グウウッ!? グギャ? ギャヒュ、』
かと思えば、今度は急激に苦しみだす。酒がようやく回りきったのか、とぼんやりした頭でエレンが考えた、その瞬間。
災竜の背が光り輝いた。赤い赤い、鮮血のような光だった。
「な……」
何事だ、とも言えない内に、その光はどんどんと強くなる。それだけではない。ぐちゃ、ぐちゃと、まるで砂呑蛇を捌いたときのような音がしていた。どこから? やはり、災竜の背から。
その災竜は大きくびくん、びくんと数度痙攣すると、とうとうぱったり動かなくなった。苦し気に細められていた目が、ぐるりと白く剥かれる。
背に反り立っていた一対の翼が、力なく垂れ下がった――かと思うと、なんとゲル状にどろりと溶けて、罅割れたコンクリートの上に滴り落ちた。
そうして残ったのは、白目を剥いて倒れ伏す、災竜の――いや、翼がないために、それは最早巨大な蜥蜴の死体となり果てていた。
「一体、どういう……」
エレンの疑問に呼応するようにして、背中の光が一層強まった。その赤い光のことをエレンは知っていた。
エーテル。天の扱う神の光。
その光の内から、人影がゆっくりと滲み出る。
「あ……アデ、アデル!?」
「肯定。自分の登録名はアデル」
赤い光を背負った人影が、そっけなく頷いた。たまらず、エレンは駆けだしていた。
ごつごつとした鱗に覆われた災竜の脇腹によじ登り、グニャリと嫌な踏み心地のする背をよろめきながら歩き、光の前へと向かう。
「説明……災竜の胃が、エーテルを扱う器官を兼ねていた。自分はこれを補充、
アデルは片腕が何やら物々しい刃物になっていたし、全身が唾液だか胃液だかの混じった異臭を放つ粘液にまみれていたし、話を聞こうとしないエレンへ不審げな視線を向けていたが、そんなのどうだってよかった。
その細い肩に腕を回し、自分へと強く引き寄せる。レイヴンの――それも、エーテルを補充した万全のアデルにかかれば、エレンなど虫けらのように弾き飛ばせるだろう。しかし、アデルはそうしなかった。
辺りは粉砕された灰色のコンクリートが転がっていて、空は灰色の雲に覆われていて、錆びた合金板が鈍く光を反射していた。いつしか災竜の背から洩れていた光も収まっている。
灰色の世界の中で、アデルの瞳と肌を走り抜ける赤いラインだけが、鮮烈な赤の輝きを放っていた。
しかし、それも少しずつ少しずつ穏やかになっていき――最後にアデルの瞳の奥が晴れた空の色をした光を放ったのを最後にして、エーテルは完全に消え失せた。
そこでようやくエレンは我に返り、アデルから身を離す。
「わ――悪い! こう、つい感極まって……ええと、今のは人間的には親愛を表すコミュニケーション手段で……」
「それくらいは分かる」
「そ、そうか……えっと、大丈夫か? どこか痛いところとかは?」
「問題ない。それより……質問。流民のコミュニケーションについて」
エレンは慌てふためく。
「わ、悪かったって! 本当に、嫌がらせとかのつもりじゃなくて――」
「否定。違う。元いた場所に戻った際、どのような声掛けが適切かを訊きたい」
「は? ――は、ははッ! はっはははは!」
アデルの言った意味をゆっくりと噛み砕いて、エレンはたまらず大声で笑いだす。
「ム……自分は流民についての知識がごく少ない。自然な質問だと主張」
「違、馬鹿にしてるワケじゃなくて! なんつーか、嬉しくてさ」
「何が?」
アデルが流民に、エレンに歩み寄ってくれるのが。しかし、それをわざわざ口に出すほどエレンは野暮ではない。
代わりに、にっと笑って。
「『ただいま』だよ。こういう時は」
「了解した。――エレン、ただいま」
「おう。おかえり、アデル」
見つめ合う二人――の脇、少し離れた位置から声がかかる。野太い男性の声だった。
「あのね。お姉さん、若者のイチャつくとこを見れるのは大歓迎だけど。ちょっとは場所とか考えたらどうかしら?」
シャリーである。
エレンとアデルの立っている場所は、死に立てほやほやである災竜の背の上だ。感動的なシチュエーションには少々舞台としてかみ合わない。
慌ててエレンが駆けおりると、アデルもゆっくりとその後ろを着いてきた。……かと思えば、災竜のほうに向きなおり、その場にしゃがみ込む。
「――Ω・第七号。当機の記憶域及び機能ライブラリに刻み、RaSSまでの運搬を約束する」
「……どうしたんだ、アデル?」
「この個体は」
ぐちゃぐちゃの鼻を撫でながら、アデルは平坦に語る。
「廃棄された後も、天よりの使命を忘却しきらなかった。命令を、自身を兵器として扱う声を求め、飢餓に蝕まれながらも飛び続け……そしてこの遺跡が旧文明、天の技術の産物であるために、ここを守ろうと決めたらしい」
「どういうことだ? 本当に会話できたのか?」
「否定……自分の機能に、ナノマシンの中枢機構を解析及び複製し、ライブラリ化するものがある。そこから読み取った……翼の部分のみリィングラビティ、すなわちナノマシンだったために、断片ではあるが」
生憎とさっぱり分からなかったが、今のアデルを邪魔するべきではないと考え、質問はいったん後回しにしようと頷きを返す。
アデルはしばらく災竜の死体を撫で続けた後、くるりと振り返ってシャリーの方を向く。先ほどエーテルを取り込んだことにより、アデルがレイヴンであると気付いたからだろう。シャリーは警戒するように、半歩だけ後ずさった。
ぱさり、とアデルの被っているフードが取れる。戦闘時の破損のためだった。白い髪がふわりと風に流れる。
「要請……頼みが、教えてほしいことがある」
「アタシに? 何を?」
「死した同胞の、弔いかたを」
同胞、という言葉と同時に、アデルは背後の災竜を示す。
「アレが使命を果たそうとしていたこと、そのために戦い続けていたこと、それらを主人たる天が知ることはなく……認められることもなく……ただここで朽ち、何も残さず消えていくのはあまりにも、」
「ああもう、それをアタシに言うワケ?」
大きく大きく、シャリーは息を吐いた。災竜にすべてを奪われた彼は――しかし、ぎこちなく頷く。
「まあでも、アデルちゃんには悪いことしちゃったものね。いいわよ、教えるだけなら……でも、その前に」
シャリーは災竜の体液まみれであるアデルと、それに抱き着いたがために同じくべったりと粘液を付着させたエレンとを順繰りに見やる。
「一旦、体と装備を洗わない? こんな酷い臭いさせてたんじゃ、トカゲも驚いて起きちゃうわよ」
そこでやっと不快感に気が付いたエレンは、全身のぬめぬめとした感触が一気に耐えられなくなって、一も二もなく頷いた。