「――ぁぁぁ――」
アデルの強化された聴覚が、不明なノイズを感知した。
「――ぁぁぁああ――」
未だ黒い雨の降る視界で災竜を見据えながら、アデルはさらに故障箇所が増えたのかと嘆息する。戦闘時でなくてもよいだろうに――否。
違う。これは、ノイズなどではない。
「ぁぁああああアアアア――ッ!!」
一手が。
これ以上ないほどに鮮烈な一手が、上空よりもたらされた。
その一手は、ワイヤーガンを握りながら絶叫する流民の姿をしていた。
災竜の反応が大きく遅れる。当然だ、普通、人間が空を飛ぶことはない。まさか上空から奇襲を喰らうだなんて想定していなかったのだろう。
破裂音。射出されたアンカーは惜しくも災竜の翼を掠めるに留まったが、ぐるぐると弧を描いてその根元に巻き付いた。
『ギュギュアッ!?』
「おっさん、今だ! 鼻ヅラに叩き込んでやれ!」
ワイヤーで災竜にぶら下がりながら、エレンが大きく叫んだ。
「っ、任せなさい!」
パララララ!
玩具のように軽い音で、光弾の群れが放たれる。
それらは鱗の剥がれた赤黒い負傷部分――鼻の位置に殺到し、ジュウウと煙を立ち昇らせた。アデルは血肉の焦げる臭いを感知する。
『ギャアオゥ!』
「アデル、肉! 酒! 今、いけッ!」
「――了解」
散文的でこの上なく分かりにくいその指示は、しかしこの上なくアデルが求めていたものだった。翼の動きが阻害され、その上銃撃によるダメージまで負い、高度を大きく落とした災竜の眼前へとアデルは跳ぶ。
「コマンド:【
命令を走らせると、一気に体が軽くなった。戦闘型汎用レイヴンに標準搭載されている、瞬間的に出力を跳ね上げるだけの機能。神の光を失ったアデルにとって、最も頼れる武器。
弱点と化した鼻面を殴りつければ倒せるのではないか、と思った途端、災竜が死に物狂いで首をねじった。傷口はアデルから離れ、堅牢な鱗に覆われた頬が眼前に差し出される。それを殴りつけたとして、よほど上手く衝撃を叩き込まなければ致命打には至らないのを、アデルは先日の交戦で理解していた。
もちろん、倒せる可能性はある。しかしアデルはそれよりも、エレンの指示に従った。
つまり、苦悶の呻きが洩れる口の隙間へと、片手に握った肉塊をねじ込む。
『ギュウウガッ!』
ごくり、と。
災竜の喉が鳴ったのを、アデルは確かに見届けた。
特殊機能の仕様により、体内の代替エネルギー残量が急速に低下する。しかし、まだ活動限界までは猶予があった。後は、酒の回りきって動けなくなるだろう災竜にトドメを刺すだけだ――あるいは、これでもう死ぬかもしれない。なにせ、酷く弱っている。
効果はてきめん、すぐに災竜の翼が力なく下がる。アデルはエレンがワイヤーガンを手放したのを確認して、落下する彼の体を両腕でキャッチした――左前腕部に軽微な想定外のダメージ。衝撃を受け流しそびれたらしい。
すたり、とアデルが着地したのから数拍遅れ、ドウッと大きな響きを伴って、災竜が地面に墜落した。
『キュア……ギュギュギャ…………』
文字通り、息も絶え絶えといった様子だ。昨日よりも鳴き声が醜く濁っているために、まるで冥府の底より這いずり出てきた悪魔のごとき様相であった。
わざわざ長引かせることはない。アデルは拳を握り締め、一歩踏み出す。
災竜の片目が、もう片目を潰した狂気たるその拳を映した。その瞳が、死を目前にした恐怖に――否、違う。それよりも強い色に染まる。
何だ? 怒り、苦悶、絶望、どれも違う。濁りきったその瞳は、しかしこの段になって尚かすかな光を宿していた。
『ギャガアアアアアアアァァァァァアアアアッー!!』
――咆哮。
びりびりと、空気が震える。
顔の三分の一ほどが削れていて、そこに銃撃を喰らって、片目は潰れていて、翼の付け根にはワイヤーが絡まっていて、体内を分解できない猛毒に蝕まれている最中であるはずの災竜が、強く。それと同時に、その巨体を暴れさせ始めた。
翼を闇雲に動かし、足や尾をバタバタと振り回し、長い首を痙攣しているかのように捩れさせる。それは命果てる寸前だろうこの生き物の、最期のあがきに違いなかった。
地面は割れ、小屋は潰れ、頑丈な旧時代建築物でさえも粉々に砕け散る。戦略も技も何もない、ただ力と質量に任せただけの悪あがき。それを見ても、アデルが慌てることはなかった。もちろん喰らったらひとたまりもないが、堂々と相手をする必要もない。力尽きるまで退避をすればいいだけだ。追いかけるだけの余力は、もうないだろう。
力任せの片前足を横から小突いて逸らし、アデルは素早く後方に下がる。エレンとシャリーは先に退いたようだ、なんて思考しながら。
だから、唐突に災竜の攻撃範囲内へと入ったその人物への反応が、致命的に遅れた。
「おい! おっさん、何する気だ!」
遅れ、エレンの叫びが響く。
その人物は――つまり筋骨隆々の男・シャリーは、流民だとは思えないほど正確無比な動きで災竜の攻撃を避ける。
とうとう眼前まで接近しきったが、災竜もそれをみすみす見逃すわけがない。前足が思うように動かないのを理解したのだろうそれは、がばりと大きく顎を開き、蛇のようにのたくってわずかながら前進した。まるで鉄塊に穴を穿つためのパイルのように鋭い牙が、ずらりと生え揃っているのを見た。
シャリーは、その口内に転げ込む。
「――これ以上奪わせてたまるモンですか、クソトカゲが」
そう呟くのが聞こえた。いつの間にやら、片手に酒瓶を持っている。つまり、今度はシャリーが毒餌になっていたのだった。弱った災竜がゆっくりと、しかし着実に、その口を閉じようとする。
「バカ野郎がッ!」
怒鳴り声が響いた。
落下していたワイヤーガン本体を掴み、その巻き戻し機能により凄まじい速度で未だワイヤーの繋がる災竜へと急接近したエレンが、シャリーの襟首を掴んで後ろに放り投げる。しかし勢い余って、今度はエレンがその口内に滑り込んでしまった。
災竜の口が閉じようとする。
――ああ。
それはダメだ。許容できない。
いくらレイヴンといえど、最早間に合わないタイミングだった――ただ、駆けたのであれば。
「コマンド:【
命令を唱える。途端、残りのエネルギー全てを食い散らかして、アデルの出力が跳ね上がった。残り数秒、【
駆ける。前方、エレンの元へと。その体を掴み、全力で後方に押しやった。
鉄格子のような牙越しに、ギリギリでエレンが口外に脱したのを確認する。
災竜が口を閉じきりごくりと喉を鳴らしたのと、エネルギーを使い果たしたアデルの視界が鮮烈な深紅に染まるのは、ほとんど同時だった。