「あんまり慌ててないのね」
穏やかな口調に、アデルはぱちくりと瞬く。
「それはあなたも同じ。多少の発汗および体温の上昇、すなわち緊張は観測できるが、ごく軽度と推測」
「そりゃあ、アタシとエレンくんは昨日会ったばっかだしねえ。死んじゃったら寝覚めは悪いけど、逆に言ったらそんくらいよ。でも、アデルちゃんはそうじゃないでしょ」
案外あっさりしている。アデルは少し意外に思った。
アデルが落ち着いているのにも理由はある。
「……
それは、あの災竜が自分と近い存在であるという一種の信頼だった。
兵器は道具だ。道具はなんらかの目的のために存在する。エレンをわざわざ喰わずに運んで行って、根城に戻ってもまだ生かしているのだから、そこには必ず意味が――目的が介在していると見ていい。いたずらに殺されることはないはずだ。生き物を愉悦のためだけに殺すのは、同じ生き物……それも鴉だとか猫だとか人間だとか、ある程度知能が高い種だけの特権である。
それでもざわざわとした感触はある。胸の内、あるいは頭の奥で。死ぬわけがないだろう、とアデルは声に出さず口の中で呟いた。それ以上を考えたくはなかった。
でも。
「それに、自分もエレンにそこまでの情はない」
つい、そんなことを言ってしまう。
「……アデルちゃん。もしかして、エレンくんと喧嘩でもした?」
急に、シャリーが低い大人びた男性らしい声音で質問を投げかけてきた。
「回答する理由がない」
「つまり、したのね?」
「…………」
話を聞け、というようなことをアデルは思った。肯定も否定もしていないのに勝手な結論を導いて、これだから流民は不合理で困る。
「否定、そのような言葉に該当する行為はしていない。意思伝達上でのミスがあっただけ」
「というと、具体的に?」
「相手がこちらの意にそぐわない発言をした。こちらがそれを咎めた。相手が物理的距離を開けた。以上」
はあ、とため息が背中越しに聞こえた。
「立派に喧嘩じゃないのもう……エレンくんが一人で外に出てたから、まさかとは思ったけど。ちゃんと謝らなきゃダメよ?」
何を言うのだ、とムッとした感覚がメモリ内に浮上する。
「自分に非はなく、謝罪の意思もない」
「そうなの? 百、対ゼロ? 完全に?」
肯定をしようとして、しかしアデルは思いとどまった。本当に完璧な対応をできたかといえば、そうではないのを思い出したからだ。
「……検討中……咎める際、少々大げさな反発の仕方をした、可能性がある」
「怒鳴っちゃったってこと?」
「概ね肯定。威嚇をした……不必要な威嚇だった。衝動的かつ感情的な……」
言ってから、はたと口をつぐむ。
感情的? 感情などない、レイヴンの自分が?
しかし事実として、リィングラビティを展開する必要はなかったのだ。ただ、それをやれば――レイヴン、兵器としての証を見せつければ、エレンが怯えると思って。熱い感覚に促されるがまま、気が付けば双翼を開いていた。
「じゃあ、やっぱり謝らないと。謝れるうちに、ネ」
思考が深く沈む前に、シャリーの言葉によってアデルの意識は引き戻される。
「……疑問、質問、進言。現在自分たちは災竜との交戦を控えており、これは適切な会話にあたらない。戦闘時の備えについての意思疎通を図ったほうが有意義」
作戦が上手くいったとして、文字通りの命がけであるのは間違いない。ただの脆い流民たるシャリーにとっては尚のこと、のはずなのに。
「あら、そんなことないわよ? 悩み事があるとね、戦ってる間にウッカリ気が抜けちゃったりするの。それでぼけっとしてて頭が吹きとんだヤツ、アタシは何人も見てきてるんだから」
「否定、それはそのサンプルが集中力を欠いただけ。自分は同じ状態にならない」
そもそも、戦闘時などは意識を専用のモードに切り替えている。ウッカリなどはあり得ない。
しかし、なおもシャリーは言い募る。
「だったとしても、希望を持っておくってのは大事なことよ。何をするにしても、理由ってやつが必要なの。戦うときだって、勝ったら何ができるか何をするかっていう目標があったほうが、張り合いって言うの? 文字通り死に物狂いで生き延びられたりするんだから。経験則ね」
年上の言うことは素直に聞いておくものよ、と一言添えられて、一歳のアデルは黙り込んだ。しかし、別に年長者に配慮しようと思ったわけではない。
少し、気になったのだ。目の前にいる人間のことが。
レヴィまではまだ、あといくらかなだらかな下り坂を行く必要がある。時間はあった。
「……質問。経験則、ということは……推測、あなたは謝罪に失敗した経験がある?」
「あら賢い。ちょーっと昔に、親父とねえ」
「親父……父、男親のこと?」
天人の技術と機械によって生まれたアデルにとっては、まったく馴染みのない概念。
「そ。アタシ、本の虫ってヤツだったのよ」
「……検索中……把握。読書を好む性質だった。しかし、それと謝罪になんの関係が?」
「本は本でも、娯楽用の空想文書が好きだったの。特に一番お気に入りだったのは、きらきらしたお姫さまと、それを助けにくる勇者さまの話」シャリーの言葉に自嘲気味な響きが混じる。「親父はレヴィで
アデルは自身に搭載されたデータベースを検索する――が、いまいち該当語句の意味が理解できない。天人の作ったそれには、《黄昏》前のデータしか入っていないのだ。
しかし、恐らくは家畜化しているなんらかの
「今にして思えば、お肉に卵に皮まで生産する立派なお役目よ? でも、毎日毎日可愛くもないゴツゴツ蜥蜴の数を数えて大きさを測って血まみれになりながら捌いて……そんな、空想文書の中のわくわくとかきらきらとは似ても似つかない未来はごめんだわって、そりゃもう大喧嘩してねえ」
「勇者になりたかった?」
「アタシ、昔はもうちょっとお淑やかだったのよ。今じゃあ筋肉ダルマだけど。なりたかったのはドレスとティアラを付けたお姫様のほう」
バカよねえ、とシャリーは笑った。耐衝撃素材の迷彩柄ジャケットを着て、背には物々しい銃を背負いながら。
周囲は荒涼とした大地だけが広がり、前方には朽ちかけの遺跡だけがある。きらきらともわくわくとも無縁なのだ、この世界は。そのくらいのことは兵器にだって分かる。
「んで、喧嘩の末に親父がその本をばらばらにしてくれちゃって……あんまりアッタマきたから、アタシ、家出したの。この世界のどこかには、アタシを連れ出してくれる勇者サマがいるはずだって。そこからいろいろあって……図体だけはデカいから、用心棒みたいなことしたり……そもそもノンビリ本を読めるだけ、相当恵まれた環境だって気づいちゃったりね。親父に謝ろうと思って、ようやく帰って来たのよ」
フロートバイクが止まった。レヴィは、シャリーの故郷だというそこは、あと十数メートル程度の距離にある。
最早そこに、彼の帰りを待つ人はひとりだっていないのだ。
「ちょっと、遅すぎたみたいだけど」
シャリーが立ち上がった。アデルもそれに倣い、ひょいと座席から飛び下りる。図体の大きな彼に合わせて調整されたのだろう座高は、それより小柄に設計されているアデルには少々高すぎた。
「……理解、把握。エレンの救助に成功した場合、謝罪を表明しよう」
気が付けばそう言っていた、そう言うべきだと判断していた。
なぜ? ……分からない。
「それがいいわ。そのためにも、クソトカゲをぶん殴って囚われのお姫さまを取り戻さなきゃね? さ、行きましょ」