「否定。そうではない」
エレンの問いにも、アデルは首を横に振った。
「じゃあ、宥める方法とか? ……ああ、災竜も天からの兵器なんだっけか。実は会話ができる、みたいな?」
「否定。アレは爬虫類の
アデルが何を言いたいのか、エレンはすっかり分からなくなってくる。
「……同族を殺したくない、とか」
「強く否定。アレは天よりの使命を放棄し食欲に身を任せる失敗作であり、誇り高きレイヴンと比べるまでもない」
アデルのプライドを刺激してしまったようだ、とエレンは口をつぐむ。どうして分からないのかと言わんばかりの態度で、アデルはふるふる首を振った。
「そうではなく、自分たちの目的のこと」
目的。そんなもの、決まっているではないか。
「そりゃ、災竜を倒すことだろ? 倒して、代わりにナントカバイクを貰う」
「否定、訂正、前者は手段。目的は後者、フロートバイク及び食料の入手である。災竜の処理は必ずしも必要な行動ではない」
つい、とアデルが指さした部屋の隅にあるのは、つるりとした白い円盤――折りたたまれたフロートバイク。それから、隣にたっぷりと保存食の詰まった箱も。どちらも現状、シャリーの所持品だ。
「鑑定、推測。黄昏前のライトレイン社製フロートバイク【クートン】シリーズの第二世代を、RaSSにてエーテル式にしつつコピーしたもの。生体認証形式や総重量に多少の違いはあるが、大部分のマニュアルは自分のデータベースに記載がある。操縦に支障はない」
「ま――待てよ。おい、まさか盗むって話じゃないだろうな」
エレンはようやくアデルの言わんとするところを察し、眉をひそめる。
「……? 現在、地上に法らしき法は存在しない。犯罪行為にはあたらない、そもそもその概念がない」
しかし、アデルはただ心底不思議そうな反応で首を傾げただけだった。
エレンの語気が強まる。
「そういう問題じゃないだろ! だいたい、シャリーさんの身にもなってみろよ。俺たちを助けてくれたんだぞ? だってのに持ち逃げなんてしたらさ、あんまりじゃねえか、な?」
「こちらがフロートバイクを入手した場合、彼が追いつくことは不可能。ゆえに報復の可能性も限りなく低い」
「報復なんざ関係なく、約束は守るべきだ。法なんざなくったって、盗みはいけないことだ。道徳と倫理、分かるだろ?」
「それは集団が円滑に行動するための不文律であり、個、あるいは少数で動くにあたって倣う理由はない」
平行線だった。
寝起きだったのもあるだろう。怪我が痛むのもあっただろう。あの不快な笛で起こされたのもあっただろう。……久しぶりに、本当に久しぶりに、正面から話せる相手がアデルだった、というのもあったのかもしれない。レオとは最悪の別れ方をしたし、ガラクタ弄りのじいさんとはあくまで他人として接していた。
段階を踏むべきだ、というのはエレンにだって分かっていた。なにせ、まだ出会ってからたった数日だ。似たようなことを伝えるにしたって、もっと上手い方法があった。
けれど、この時のエレンの頭に、そんなことを考える隙間はなかった。
あるのは、自分がアデルを正しい方向に導いてやらないといけないのだという、傲慢なまでの使命感だけ。
「倫理や道徳は、人間が人間として生きるために絶対必要なモンだ……って、アンも言ってた。損得は関係ない」
「否定、自分は人間ではない。兵器」
今度こそそっけなく、淡々と、アデルはその言葉を吐く。……否、エレンがその方向に、会話を誘導したのだ。
「提案……必要物資の運搬は自分がやる。エレンはついてくるだけでいい。それならば、あなたはその、道徳と倫理やらを守れる」
「違う。そういう話じゃない」
「これでも抵触する? 流民の価値観は理解し難い……ならば、」
「だから違うんだって! ……俺の話じゃなくてさぁ」
てのひらで片目を覆うようにして、エレンは大きく首を振る。
「アデルだって、人間だろ。ほら、アルカで俺を庇ってくれたし……ああいうのが道徳と倫理、じゃないか? な?」
な? と、エレンは手を下げ笑顔を作り、アデルのことを見た。
頷かれるといいな、と思った。そう、いつかアンが話した空想文書。心なき人形は妖精によってかりそめの魂を与えられ、他者を慮ることによって真の人間となる。
あるいは、無表情に首を横に振られるか。それでもいい。何度だって繰り返してやる。いつかは鉄面皮も剥がれるだろう。
――果たしてアデルの反応は、そのどちらとも違うものだった。
「愚弄しないで」
はっきりと、冷たく冴えわたる響き。
カタカタ、と音が鳴る。
「説明。当機はレイヴン。レイヴンは兵器。戦いとそれによる命令の完遂、それを目的として製造された。稼働より一万と二百十一時間、その意義を以て活動している」
カタカタ。
アデルの背から生えたのは、無骨で流麗な、一対の機械翼――レイヴンとしての象徴だった。
同時に放たれたのは、強いプレッシャー。まるで巨大な砲塔を目の前にしているかのような、あるいはそれ以上の。エーテルが枯渇していようと、レイヴンとは兵器なのだ。それを、魂の芯まで思い知らせてくるような。
エレンは翼を広げた猛禽の姿を幻視した。
「今現在もそのために、当機はバベルを目指している。再度、要求。愚弄をするな」
しまった、と思った。しかし、もう遅かった。
アデルはアデルなりに、エレンの価値観を尊重しようとしてくれていたのだ――それがエレンの望むかたちではなかったというだけで。盗みを働くことに気が咎めるのなら、自分がそれを行おうと提案してくれたのだ。
だというのに、エレンは今、何と言った?
アデルが垣間見せる人間性を思い、勝手に自分の価値観に当て嵌め、あまりに短絡的な踏み込み方をした。アデルのためになるという理由までつけて。
長い目で見れば、そうかもしれない。しかし、アデルは生まれてからずっと、レイヴンたる自分をアイデンティティとして生きてきたのだ。それをただ否定するのは……そう、愚弄だ。アデルが歩んできた、今までの全てへの。
目の前の相手の価値観も慮れず、何が倫理か。何が道徳か。
「……悪ィ」
呻くようにして、エレンは後ずさる。足に何かが当たった。酒瓶だった。
エレンはそれをひったくるようにして掴むと、そのまま部屋の外に出た。いたたまれないのと、恐怖からだった。
外はどんよりと灰色の雲が低く垂れこめ、気分の落ち込むような曇天であった。
そうだ、シャリーを追おう。災竜の様子を見に行くのだ。
現実逃避のように、エレンはそんなことを思った。
エレンはレヴィがあるはずのほうを見やる。逃避した先にあるのもまた、ままならぬ現実であることも知らず。
「ん……あれ、おっさんか……?」
離れた位置に小さな点があるのを見つけ、エレンは目を細める。スコープは、荷物ごとテントの中である。
その点はだんだんと近づいてきて、筋骨隆々な男性の姿になった。やはりシャリーだ。何かを叫んでいるが、まだ遠すぎてよく聞こえない。
「エレ――――カゲが――血――――やく、」
「なんだって!? 聞こえねえよーッ!」
叫び返すと、一瞬の沈黙があった。シャリーが大きく息を吸うのが分かった。
「――逃げろオッ!」
明瞭にして簡潔な、野太い咆哮。
「……は?」
エレンがその意味を理解する前に、空が壊れた。
違う。一面を覆う雲を押し潰すようにして、巨大な影が姿を現したのだ。
その影は鱗に覆われていて、ギラギラ光る片目を携えていて――鼻面が、ひしゃげるようにして潰れていた。顔の半分は血まみれで、それを見上げている間にも、エレンのすぐ隣にぼとりと赤黒い塊が落下した。固まりかけた災竜の血だった。
これでは嗅覚など、ほとんど喪失しているだろう。
鋭い鉤爪の生え揃った前足が、エレン目がけて伸ばされる。
「――【
白い閃光が走った。アデルだった。
一条に伸びるそれは真っ直ぐ災竜に残るもう片目へと飛翔し、そして、
『グゥギャアッ!』
「ぅあッ、!」
災竜は顔を傾け、血まみれの鼻面で閃光を受けた。ぬるりと滑る血によって、重機にも等しい殴打の矛先が逸れる。どうっと重い音が響き、地面に砂埃が舞った。
無論、災竜とてダメージがないわけではない。元からひしゃげていた顔はさらに潰れ、まるで腐った果実のようだ。しかし、それでもこの怪物は、怯むことさえしなかった。ただ残った目を爛々と光らせて、エレンの体をがしりと掴む。
ぐい、と体が持ち上がる感覚。潰されんばかりの圧迫感に、肩とアバラが悲鳴を上げる。
嘘だろ、と思った。
このタイミングじゃなくたっていいだろう。アデルにロクな謝り方もしていないのに。地面に激突したようだったけれど、果たして無事なんだろうか。
肺が潰されたのか、息がしにくい。高度のためかもしれない。地を生きる流民たるエレンには、翼を持つものが駆ける空というものがあまりにも高すぎた。
ぜえ、ぜえ、と二回喘鳴を鳴らしたところで、エレンの意識は限界に達した。