無理やり気絶させられての休息ではあったが、足はある程度軽くなっていた。負傷した肩の治りも早いように感じるのは、アデルのやってくれた謎止血のおかげなのだろうか。
そこからは、ただひたすらに荒野を歩いていくだけ。
広がるのは褐色の大地。風が砂を巻き上げる単調な音と、まるで無菌室か何かのように乾いた匂い。肩はじくじくと鈍く痛む。そういう単調な要素だけが、エレンの知覚を覆っていく。
(……暇だな)
暇、それ自体には慣れていた。長い一人での都市生活が与えたのは、なにも生き抜く知識や力だけではない。
ライトベルトから薬品混じりの黒い雨が降り注ぎ、いつ止むとも知らぬまま狭い廃ビルの一室に閉じ込められたときもあった。毒のある
そういう経験に比べれば、目標を前にして歩き続けるということは、大した苦にはなり得ない。食料という時間制限はあるが、夜間の移動によってそれなりの余裕もあるはずだ。
すん、と意味もなく鼻を鳴らす。入ってきたのは、やはり乾いた砂の匂い……。
(…………ん?)
違和感を覚え、エレンはもう一度鼻から息を吸う。
ざらざらとした感触のする匂いの中に、甘いような、頭にくらくらと来るような、木の一本もない褐色をした荒野にあるはずのない何かが混じっていた。
「……なあ。なんか、変な臭いがしないか?」
「嗅覚に対する使用メモリを増設……肯定。なんならかが発酵したアルコールの成分と推測」
即答。
それが何を意味するかを考えるよりも先に、エレンは即座に腰の銃を抜く。
「警戒するぞ、アデル」
「既に五感の機能を約五十パーセント増加させている」
言葉に嘘はないようで、アデルの瞳の輝きがわずかに増していた。
それを軽く確認するに留め、エレンはイレギュラーな臭いの発生源を探す。
アルコール、つまりは酒だ。エレンも都市移遺跡で発掘した合成ウイスキー、あるいは即成発酵剤を利用した豆酒くらいは飲んだことがある。
気にかかるのは、どちらの酒にも人間の手が加わっているという点である。
この世界において、人々の寄り合う集落以外の場所で他人に会うことは非常に珍しい。理由は簡単で、荒野の環境は人が単独で生きるにはあまりにも厳しいからだ。エレンとて、レイヴンたるアデルがいなければあの
しかし、ごく稀に他の流民と遭遇したとして、それは決して幸運などではない。
むしろ、頭が回り言葉を話す人間というものは、時にただ襲いかかってくるだけの変異生物より数倍も恐ろしいことさえある。
ゆえに、エレンは最大限の警戒をもって辺りを見渡した。
植物を放置することで自然と発生する場合もある……らしいが、この辺りは過去に毒性の強いガスだか爆弾だかが降り注いだという話で、辛うじてひょろりとした草がぽつんぽつんと生えているのみである。
近くに人間がいる可能性が極めて高い。
ぱっと見隠れられそうな場所はないが、ちょっとした窪みなんかに伏せられていたら気がつくことは難しい。
だから、エレンは前後左右を警戒した。どこから何がきたとしても気がつくことのできるように。
そのために。
唐突に周囲が暗くなったその瞬間、エレンは即座に対応することができなかった。
当然だ。人間が空から襲いかかってくるこなど、まずないのだから。頭上までは意識が向いていない。
飛び退くよりも先に、太陽を遮るほどの巨躯を持つ何かが、ガッシリとエレンの肩を掴んだ。
ふわり、と、内臓がひっくり返るような感覚。
「——ッ、うわああッ⁉︎」
両足が地面から離れている。何者かがエレンを持ち上げ、そのまま空を飛んでいる。
二メートル、三メートル、どんどん地面が離れていく。だけではなく、肩の圧迫感も増していき、骨がミシミシと嫌な音を立ている。
もう駄目か、と諦めかけた瞬間。
「コマンド:【
『ギャオオオオンッ⁉︎』
「ヒット。討伐ならず」
白い影が飛翔し、衝撃が走った——と思えば、肩の圧迫感が消えた。エレンの体は虚空へと投げ出され、哀れ地面と大激突……ということもなく、空中でアデルにキャッチされ、そのまま地上に軟着陸を果たした。
直後に相手から一撃が放たれるが、
「コマンド:【
まるで物理法則を無視しているかのごときアデルの高速移動により、バシンと地面を叩くだけに終わった。
「わ、悪ィ。助かった——」
「警告。特殊機能の連続使用により、エネルギーの損耗が基準値を下……回り……」
ふらり、アデルがよろめいた。まさかとエレンは目を見張る。
そのまさか、
「おい、アデ——ッ、ぶねえなッ!」
彼女を慌てて抱き起こしたエレンは、また周囲が暗くなったのに反応して今度こそ地を蹴り飛び退いた。間一髪、先ほどまでエレンの頭があった位置を、足ほどにも太く鋭いカギ爪が走り抜けていった。
そこでようやく、エレンは自身を空へと連れ去りかけた相手の正体を理解する。
「冗談だろ——」
ひやり、と額を冷たい汗が流れる嫌な感触。
「砂呑蛇だけでも十分アンラッキーだってのに、今度は
それは、
その厄介なところは、何より空を飛ぶ点にある。普通、巨躯を持つ変異生物は、体が重すぎて飛行することが叶わないのだ。
しかしどういう仕組みなのか、この巨大な羽付き蜥蜴は我が物顔で悠々と空を飛び回り、目に映る生き物は変異生物だろうと人間だろうとことごとくを喰らい尽くしてしまう。
出会ったら死ぬ、生き物というよりは厄災に近い存在。
しかし、案外災竜に殺される人間の数はごく少ない。本来であれば《竜の巣》と呼ばれる遺跡に住んで姿を現さないはずなのだ。
しかし、その赤く燃えるような翼も、黒い鱗に覆われた全身も、妙にのっぺりと白い爪も、間違いなくエレンの知る怪物のそれで。
その災竜は、右の目からぼたぼたと血を流し、憤怒の形相でエレンの腕の中……つまり、抱えたアデルを睥睨していた。
マズい。
マズい、マズい、マズい。
エレンの頭の中を、その言葉がぐるぐる巡る。
「アデル、動けるか⁉︎」
「……否定。エネルギー……残量が、稼働に……足るだけを、下回っている……」
「だろうなぁ!」
困ったことに、前回と同じく食べ物を口に突っ込むだけの隙もなければ、即座に食べさせられる携行食もない。肉はあるが生肉のままだ。
そしてまさか、
『ガアッ!』
振り下ろされた爪の一撃は、横跳びでなんとか回避した。
しかし着地をするより先に、薙ぎ払われた尾がエレンの脇腹へとクリーンヒットする。
「がァッ……!」
なんとか抱えたアデルを放り出さずには済んだが、衝撃によって何メートルも吹き飛ばされ、そのまま背中で地面を削った。
痛い。熱い。肋骨がやられたのか、うまく立ち上がることができない。肩の感覚もおかしい。衝撃で傷口が開いたのだろうか、確認するために首を少し捻る余力すらなかった。
(クソ、情けねえな……)
翼を折りたたんで急降下、迫る災竜を見据えながら、エレンは薄く笑った。
協力関係と言っておきながら、アルカのときも砂呑蛇のときも、ずっとアデルに頼り切りだ。そしてアデルが自分のミスをフォローするため戦闘不能になった途端にこのザマなのだから、もはやエレンが一方的にアデルの力を利用していると言ってもいい。
せめて——せめて、アデル一人でも見逃されないだろうか?
災竜はあらゆる生物を喰い殺すのだという。レイヴンは兵器なのだから、食べられずに済むかもしれない。
竜が。
赤黒い色をした死が、眼前に迫る。
カッと見開いた瞳が、真っ直ぐにエレンを見ている。
カギ爪の生え揃った腕が伸ばされる。
いよいよ朦朧とする意識の中で、あの、頭がくらくらするようなアルコールの香りを強く感じた。